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折口信夫 : ミニ英和和英辞書
折口信夫[おりくち しのぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おり]
  1. (n-adv,n-t) chance 2. suitable time 
: [くち]
 【名詞】 1. mouth 2. orifice 3. opening 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

折口信夫 : ウィキペディア日本語版
折口信夫[おりくち しのぶ]

折口 信夫(おりくち しのぶ、1887年明治20年)2月11日 - 1953年昭和28年)9月3日)は、日本民俗学者国文学者国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人歌人でもあった。
彼の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。
歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。
== 経歴 ==

1887年2月11日大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの4男として生まれる。
1890年木津幼稚園に通う。1892年木津尋常小学校(現在の大阪市立敷津小学校)に入学する。1894年叔母えいから贈られた『東京名所図会』の見開きに初めて自作歌を記す。感謝の念篤く、『古代研究』にはこの叔母への献詞を載せている。
1896年大阪市南区竹屋町、育英高等小学校に入学する。1899年4月大阪府第五中学校(後の天王寺中学)に入学する。中学の同級生には武田祐吉(国文学者)、岩橋小弥太(国史学者)、西田直二郎などがいた。
1900年夏に大和飛鳥坐神社を一人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという説がある〔富岡多惠子『釋迢空ノート』〕。富岡によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性があるという。
1901年15歳になったこの年に父親から『万葉集略解』〔江戸後期の歌人加藤千蔭が、1800年(寛政12)『万葉集』二十巻を注釈した著述で、明治以降も刊行されている。折口が読んだのは明治33年版〕を買ってもらう〔。『文庫』『新小説』に投稿した短歌一首ずつが入選する。
1902年成績が下がる。暮れに自殺未遂。1903年3月自殺未遂。作歌多し。
1904年3月卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同じく後年、天王寺中学から校歌の作詞を再三頼まれたが、かたくなに拒み続けたと伝えられる。大和に3度旅行した際、室生寺奥の院で自殺を図った若き日の釈契沖に共感、誘惑に駆られる。
1905年3月天王寺中学校を卒業する。医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學予科に入学する。藤無染と同居する。この頃に約500首の短歌を詠む。
1907年予科修了、本科国文科に進んだ。この時期國學院大學において国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受ける。また短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りした。1910年7月國學院大學国文科を卒業する。卒業論文は「言語情調論」。1911年10月大阪府立今宮中学校の嘱託教員(国漢担当)となる。
1912年8月伊勢熊野の旅に出た。1913年12月「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。1914年3月今宮中学校を退職し、上京する。折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したという〔『わが師 折口信夫』118頁〕。
1916年國學院大學内に郷土研究会を創設する。この時30歳。『万葉集』全二十巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行する。1917年1月私立郁文館中学校教員となる。2月「アララギ」同人となり選歌欄を担当する。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動する。1919年1月國學院大學臨時代理講師となる。万葉辞典を刊行する。
1921年7~9月柳田國男から沖縄の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行。1922年1月雑誌「白鳥」を創刊する。4月國學院大學教授となる。
1923年6月慶應義塾大学文学部講師となる。第2回沖縄旅行。1924年1月亡師三矢重松の「源氏物語全講会」を遺族の勧めで再興する。後慶應義塾大学に移し没年まで続ける。
1925年5月処女歌集『海やまのあひだ』を刊行する。1927年6月國學院の学生らを伴い能登半島に採訪旅行し、藤井春洋の生家を訪う。1928年4月慶應義塾大学文学部教授となり芸能史を開講する。またこの年には「アララギ」を去って北原白秋らと歌誌『日光』を創刊する。
1932年文学博士の称号を受ける。日本民俗協会の設立にかかわり、幹事となる。1935年11月大阪木津の折口家から分家する。第3回沖縄旅行。1940年4月國學院大學学部講座に「民俗学」を新設する。愛知県三沢の花祭り、長野県新野雪祭りを初めて見る。
1941年8月中国へ旅し、北京で講演を行う。12月太平洋戦争起こり、藤井春洋応召。1944年藤井春洋、硫黄島に着任。春洋を養嗣子として入籍。1945年3月大阪の生家が戦災により焼失する。大本営より藤井春洋の居る硫黄島の玉砕発表。8月15日敗戦の詔を聞くと箱根山荘に40日間籠もる。
1948年4月古代感愛集により日本芸術院賞を受賞する〔『朝日新聞』1948年4月29日(東京本社発行)朝刊、2頁。〕。12月第一回日本学術会議会員に選ばれる。1949年7月能登一ノ宮に春洋との父子墓を建立する。1950年宮中御歌会選者となる。1953年7月初め箱根行き、健康すぐれず。8月31日衰弱進み慶應義塾大学病院に入院する。9月3日胃癌のため永眠する。養子として迎えた春洋(戦死)とともに、気多大社のある石川県羽咋市一ノ宮町にある墓に眠る。折口家の菩提寺願泉寺に分骨が納められている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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