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折田 彦市(おりた ひこいち、嘉永2年1月4日(1849年1月27日)〔板倉(1993)、p.3;厳(2008)、p.18。この日付は折田自筆の「折田家系図」を根拠としている。なお、板倉(1993)、p.185によれば、嘉永3年(1850年)7月4日生まれと誤って記載した資料があるといい、『議会制度七十年史』は嘉永3年(1850年)7月生まれ、『京大百年史』p.210も折田の生年を1850年としている。〕 - 1920年(大正9年)1月26日)は、明治時代に活動した日本の教育者・文部官僚。旧制第三高等学校(三高)の初代校長として知られている。その前身校も含めれば約30年間にわたって三高の校長を務め、同校の「自由の学風」を築いたとされる。 == 生涯 == === 生い立ち === 嘉永2年(1849年)1月4日 、薩摩藩士折田寧剛の四男として薩摩国鹿児島で生まれた。青年期までの名として彦市のほかに三之丞・権蔵があり、諱は年長であった。少年期には家族の縁に恵まれず、父は安政5年(1858年)に没し、母も慶応元年(1865年)に世を去っている。長兄の年昭に子がなかったため、その養子となっている〔厳(2008)、p.18。〕。 折田は少年時に儒者の平田氏に学び、次いで藩校造士館に入学した。同じ時期、造士館では2歳年上の森有礼が学んでいる。文久2年(1862年)4月、14歳の時に藩主島津茂久(のち忠義)に小姓として出仕。慶応4年(1868年)1月、茂久に従って上洛した際、選ばれて岩倉具視の御附役となった〔。折田を岩倉に推薦したのは、長兄の年昭と親交があった西郷隆盛であるとも〔『神陵史』、p.539。〕、大久保利通であるともされる〔厳(2008)、p.73。〕。 折田は岩倉から厚い信頼を受けた。のちに折田が「系図」に自ら記したところによると、岩倉暗殺の風説が流れた際に随伴して警護に当たったことがあったという〔厳、pp.18-19。〕〔板倉(1993)、p.236。〕。戊辰戦争の際には岩倉の伝令役として、東山道鎮撫総督・副総督になった岩倉の二子(岩倉具定・具経)との連絡にあたり、戦闘に参加したこともあったらしい〔。 一時期、折田は岩倉邸を離れ、神戸の洋学塾「水本塾」で英語を学んだ〔板倉(1993)、pp.234-235。〕。岩倉も洋学の必要を認めており、明治元年(1868年)9月に具定・具経を折田に託して長崎に遊学させた。岩倉兄弟と折田は、佐賀藩が設立した致遠館に入学し、グイド・フルベッキに学んだ。フルベッキは長老派教会のを卒業、の宣教師として来日し、当時は長崎の致遠館と済美館で英語を教授していた。 フルベッキは明治2年(1869年)4月に明治政府の招聘により上京したため、岩倉兄弟と折田が彼に学んだ時期は短かった。しかし、フルベッキは宣教師ネットワークを通して日本人留学生の留学斡旋も行っており、折田らの留学にも大きな役割を果たすことになる〔厳(2008)、pp.20-21。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「折田彦市」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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