|
抜け荷(ぬけに)は、江戸時代、江戸幕府の禁令を破って、主として日本に来航したオランダ人、中国人を相手に、行われた密貿易である。 寛永年間以後、日本の貿易は長崎に限られ、その後相手国は中国、オランダのみとされ、渡来船の数、貿易額などは制限された。また、貿易は特許商人によって行われ、元禄以後は、長崎会所に限られた。以上の諸制限の外で貿易を行おうとするために抜け荷が発生した。 江戸幕府はその防止に努め、正徳4年以来しばしば禁令を発して、禁を犯すものは死刑に処したが、後を絶たず、幕末に至るまで根絶しなかった。享保年間は捕えた密商を釈放して、逆にこれを抜け荷の監察に用いて効果を上げたこともあった。 有名なものには、延宝4年に捕えられ隠岐に流された長崎代官末次平蔵茂朝、嘉永6年、捕えられ死刑に処せられた加賀の銭屋五兵衛などがある。 多くは唐船との間で行われ、あらかじめ期を約して所定の航路外の海上で、夜間、取引を行うのが常とされ、中には唐人と通じて唐人館内で行う者もあり、また外船に漂流を装わせて、九州あたりの交通の少ない海岸で行う者もあった。後には唐、オランダ以外の国とも密貿易を行う者も生じた。以上は、外国船との密貿易である。 藩において、藩営専売仕法もしくはこれに類似した仕法を行って、特定商品を密かに藩外と売買することが禁じられた場合、これを犯すことをも、抜け荷と言った。一例が会津藩の抜け蝋であり、また阿波藩では藍の抜け荷を取り締まるために抜荷制道役を設けた。 なお、「ぬきに」(抜き荷、抜荷)という言葉もあるが、これは、船頭が、回送を委託された荷主の商品を抜き取って私販することをいう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「抜け荷」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|