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パクパ (、(1235年3月6日 - 1280年11月22日)は、 チベット仏教サキャ派(赤帽派)の座主。元王朝の初代皇帝・クビライに招請された帝師。モンゴル語化したパスパの名前で表記されることも多く〔佐藤「パクパ」『世界伝記大事典 世界編』7巻、296-297頁〕、漢語史料では八思巴、発思八、抜合思巴とも表記される〔藤枝「パスパ」『アジア歴史事典』7巻、372頁〕。本名はロテ・ギャンツェンであり、幼年期に利発さを示したため、「聖者」を意味するパクパの名前で呼ばれた〔。 チベットの有力氏族の一つであるコン氏の出身であり、ソェナム・ギャンツェンを父に持つ〔。先代の座主サキャ・パンディタの甥にあたる。 == 生涯 == === 文字の発明まで === 1235年にサキャの地で生まれる。 1244年にモンゴル帝国との交渉に赴くサキャ・パンディタに伴われて同母弟のチャクナと共にサキャを発ち、1246年に涼州に到着、オゴデイ・ハーンの王子コデンに面会した〔岡田『モンゴル帝国から大清帝国へ』、129頁〕。叔父の死後はコデン王家の当主モンゲドゥの宮廷に留まり、1253年に雲南遠征の途上にあったモンゴル帝国の王族クビライに招待されてに赴き、クビライの待僧となる。クビライは改宗こそしなかったものの、チベットと中国の間に「施主と説法師(ユン・チュー)」の関係が成立した〔デイヴィッド・スネルグローヴ、ヒュー・リチャードソン『チベット文化史』(奥山直司訳, 春秋社, 2011年3月)、194頁〕。この時にパクパはクビライに灌頂を授け、クビライよりチベット130,000万戸の支配権を与えられたと言われ〔、チベットにおけるサキャ派の地位を確立した〔。 1260年にクビライがモンゴル帝国の大ハーンに即位した後、翌1261年にモンゴルの国師に任じられる。チベットはクビライの支配下の元で州と県に分割され、各地区を統治する知事は国師であるパクパの権威に服した〔ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、38頁〕。パクパはチベット以外に旧西夏領の行政権、モンゴル帝国全体の仏教行政権を委ねられ〔、チベット仏教界の他に中国仏教界に対しての指導権がパスパに与えられた〔北川誠一、杉山正明『大モンゴルの時代』(世界の歴史9, 中央公論社, 1997年8月)198頁〕。同時に、徴税と労役における僧侶の特権を獲得する〔〔山口『チベット』下、72頁〕。 クビライが即位した当時のモンゴルに独自の文字は無く、モンゴル語を音写するに当たっては漢字やウイグル文字が用いられていた。遼や金を初めとする他の国家は独自の文字を持っていたため、クビライはパクパにモンゴル独自の文字の作成を命じた〔 藤枝「パスパ文字」『アジア歴史事典』7巻、372-373頁〕。パクパはサキャ・パンディタが作成していた字母を元にしてパスパ文字を完成させ〔〔、1269年3月にパスパ文字を国字とする詔が公布された〔ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、39-40頁〕。パスパ文字発明とクビライの権威の強化のため、翌1270年にパクパはクビライより帝師と大宝法王の称号を授けられた〔中村「チベットとモンゴルの邂逅 遥かなる後世へのめばえ」『中央ユーラシアの統合』、137頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パクパ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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