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押尾川部屋(おしおがわべや)は、かつて日本相撲協会に所属していた二所ノ関一門の相撲部屋。 == 沿革 == 1975年(昭和50年)3月28日、二所ノ関部屋の師匠・8代二所ノ関(大関・佐賀ノ花)が急性白血病で急逝した。このとき、1974年(昭和49年)11月場所限りで引退した二所ノ関部屋(佐賀ノ花)所属の元大関・大麒麟は、年寄・押尾川を襲名して二所ノ関部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、二所ノ関部屋の後継に名乗りを上げた。しかし、先代のお通夜の晩に後継に名乗りを上げた大鵬親方(横綱・大鵬)、部屋の関脇・金剛に部屋を継がせたかった先代未亡人との話し合いは決着がつかず後継者争いは長期化し、暫定的に二所ノ関一門の最長老であった湊川親方(前1・十勝岩)が9代二所ノ関を引き継いだ。 そして1975年(昭和50年)9月場所前、金剛が8代二所ノ関の次女と婚約を発表し娘婿になることで後継者争いに事実上の決着を勝ち取った。これに不満をもった押尾川親方(大麒麟)は、同年9月3日に自分を慕う16名の力士を連れて谷中・瑞輪寺に立てこもり、二所ノ関部屋からの分家独立を申し出た。しかし独立は紛糾し、花籠親方(前3・大ノ海)の調停により、最終的に1975年(昭和50年)9月場所後、16名中6名(関脇・青葉城ほか)だけを連れて行くことで押尾川部屋の分家独立が承認された。このときに移籍が認められなかった幕内・天龍はそれを不服として、1年後の1976年(昭和51年)9月場所を最後に26歳の若さで廃業して全日本プロレスに入門した。 押尾川親方は独立時の紛糾をバネに青葉城、益荒雄の2人の関脇をはじめ、一代で9人の幕内力士を育て上げたが、直弟子の出世頭であった益荒雄改め阿武松親方が分家独立を求めて破門同然の形で部屋を去り、その他の幕内力士も相次いで廃業したため、結局2005年(平成17年)3月31日をもって部屋を閉じ、4月1日付で、残る所属力士6名全員のほか押尾川親方・不知火親方、床山は尾車部屋へ、呼出しは大嶽部屋へ移籍した。押尾川親方は2006年停年を1年残して退職、不知火親方も2013年11月場所中に停年退職した。 2013年11月場所現在、押尾川の名跡は尾車部屋の幕内・豪風が所有している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「押尾川部屋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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