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拓跋晃[たくばつ こう] 拓跋 晃(たくばつ こう、428年 - 451年)は、中国の北魏の皇族。太武帝の長男で皇太子、また文成帝の父である。 == 経歴 == 太武帝と賀夫人の間に生まれ、432年(延和元年)1月には皇太子に立てられた。太武帝が北燕への親征を行った際には録尚書事に任じられ。その後北涼征伐が行われると監国に任じられている。 443年(太平真君4年)、太武帝の北伐に従軍し、鹿渾谷において柔然軍と対峙した。拓跋晃は柔然軍の混乱に乗じ直ちに進撃することを進言したが、尚書令劉潔が反対、太武帝が決断を躊躇している間に柔然軍は逃亡している。太武帝は拓跋晃の進言を容れなかったことを悔やみ、以後は軍事や国政に関する拓跋晃の意見を重用、拓跋晃は北魏の国政を実質的に総覧するようになった。拓跋晃は牛や農地を農民に貸与しての開墾を含む農業振興を図ると同時に、飲酒や雑戯や本籍を離れての商売を禁止する農業中心的な政治を行っている。 451年(太平真君12年)6月、東宮で24歳の若さで薨去した。太武帝はその死を深く悲しみ、景穆太子と贈諡している。452年(興安元年)に文成帝が即位すると、景穆皇帝と追尊され、廟号を恭宗と定められた。なお、文成帝以後の皇帝は、僭称者や西魏、東魏の皇帝を含めて、いずれも拓跋晃の子孫である。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「拓跋晃」の詳細全文を読む
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