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拓跋窟咄 : ウィキペディア日本語版
拓跋窟咄[たくばつ くつとつ]
拓跋窟咄(たくばつ くつとつ、生年不詳 - 386年)は、王族。甥にあたる北魏道武帝と対抗した。
== 経歴 ==
拓跋什翼犍の子として生まれた。什翼犍の死後、前秦苻洛は窟咄が代の王族中で年長であるため、長安に移させた。苻堅は窟咄を礼遇し、書学を教えさせた。淝水の戦いの後の前秦の混乱により、窟咄は慕容永の東遷に従い、西燕の新興郡太守となった。
386年登国元年)、劉顕がその弟の劉亢泥らを派遣して窟咄を迎えた。窟咄が兵を率いて北魏の南境に迫ったため、北魏に服属する諸部は混乱した。道武帝の側近の于桓らが窟咄の侵攻に呼応しようと図ったため、道武帝は于桓ら5人を処刑し、残りの造反者は不問に付した。道武帝は内訌に悩み、北方の陰山を越え、賀蘭部に避難し、安同長孫賀慕容垂のもとに送って兵を徴募させることとした。慕容垂は子の慕容賀驎に兵6000をつけて派遣した。慕容賀驎らの軍が到着しないうちに、窟咄の軍が迫った。賀染干は窟咄と呼応して北部に侵攻した。北部大人の叔孫普洛ら13人と烏丸らは劉衛辰のもとに逃れた。慕容賀驎が近くまで来ていることを知らせると、ようやく道武帝の軍の動揺は静まった。
道武帝は弩山から牛川に進み、窟咄もまた高柳に進軍した。道武帝は安同を通じて慕容賀驎との合流を協議し、代北に出て高柳で慕容賀驎の軍と合流した。窟咄は一転して窮地に立ち、逃走したところ劉衛辰に殺害された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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