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拓跋素[たくばつ そ] 拓跋 素(たくばつ そ、生年不詳 - 462年)は、北魏の皇族。常山王。 == 経歴 == 常山王拓跋遵の子として生まれた。若くして内侍として召され、顕官を歴任した。尚安公の爵位を受け、外都大官に任じられた。426年(始光3年)5月、常山王の爵位を嗣いだ。休屠の郁原らが反乱を起こすと、素が反乱の鎮圧にあたり、首謀者を斬った。1000家あまりを涿鹿の南に移して、平原郡を立てて治所を置いた。427年(始光4年)、太武帝の夏に対する親征に従い、統万を平定すると、素は仮節・征西大将軍の位を受けて統万に駐屯した。434年(延和3年)、隴西休屠の金当川が西川侯彭文暉を陰密で包囲すると、素は金当川を討って捕らえ、長安で斬った。後に内都大官に任じられた。439年(太延5年)、北涼に対する親征に従い、先鋒をつとめた。452年(興安元年)、文成帝が即位すると、行政を簡素化して諸雑税を取りやめた。役人たちが国事の用に足りないとして、雑税の復活を願い出ると、素が「臣は『百姓足らざれば、君いずれかともに足りん』と聞いています」と発言したため、文成帝は素の意見に従った。素が皇子の名を群臣と議論するよう命じられると、司徒の陸麗とともに「いにしえの帝王が名を定めるには、有信・有義・有象・有仮・有類の五体がありました。皇子の誕生にあたっては、徳をもって命名されるとよろしいでしょう」と意見した。老年になって、たびたび文成帝に国政について諮問を受けた。在官すること50年にわたり、当時の識者に賢者とみなされた。462年(和平3年)9月、死去した。諡は康といい、金陵に陪葬された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「拓跋素」の詳細全文を読む
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