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「拝領妻始末」(はいりょうつましまつ)は、滝口康彦による日本の短編歴史小説。『城』28号(1965年3月)に掲載された。本作を表題作とした短編集『拝領妻始末』(光風社書店)は1967年に小説新潮賞候補となった。 1967年に映画化、1992年と2013年にテレビドラマ化された他、舞台化もされている。 == あらすじ == 享保10年秋、会津若松。 物頭の笹原伊三郎の家に側用人・高橋外記が訪ねてくる。藩主・正容(まさかた)の寵愛を一身に受け男子をもうけていた側室のお市の方に暇が出されることになり、笹原家嫡男・与五郎に妻として下賜するという。10年ほど前に、側室・お紋の方を拝領したものの、妻は藩主に愛されたかつての栄華を忘れられないばかりか夫を罵倒し、耐えかねた夫が返上を願い出て、お紋の方は呪詛の果てに悶死したという前例があり、息子に同じ轍を踏ませたくない伊三郎は、拝領妻の一件をひたすら平伏して辞退を願う。だが、そんな父親の様子を見ていた与五郎はこれ以上難儀をかけまいと申し出を受ける旨を伝える。 間もなく祝言が挙げられ、笹原家に迎えられたお市の方は、元のいちに戻る。姑からのいびりはあったものの、与五郎のまっすぐな思いを受け止め、城にいる息子・容貞(かたさだ)のことは二度と口にすまいと誓い、仲睦まじく暮らし始めておよそ1年半、2人の間に女の子も生まれ幸せに過ごしていたある日、正容の嫡子・正甫(まさもと)が急死し、容貞が新たな世継ぎとなるとの知らせがもたらされ、世継ぎの生母が家臣の妻では外聞が悪いと、いちを城へ返上せよとの命令が下された。 いちは人形ではない、たとえ火の雨が降ろうとも応じられぬ、と強く拒む伊三郎と与五郎を見て、いちも、たとえ家が取り潰しになろうとも与五郎に添い遂げたい、と主だった親類を前に宣言する。何事もなく数日が過ぎ、周りも納得してくれたのだろうかと思いつつあったある日、与五郎が待っているからと義弟・文蔵に謀られ、家老・柳瀬三左衛門の屋敷に赴いたいちは、柳瀬、高橋、一門の最長老格・笹原堅物の脅しとも取れる強い説得についに折れ、奥に戻ることに同意してしまう。翻意を恐れた柳瀬らは、家へ戻って別れを告げることも許さなかった。 形式にこだわる家老から、いちの返上願いを書くよう申し付けられ、腹にすえかねた与五郎は、いちを戻して欲しいという嘆願状を提出する。享保12年12月、伊三郎・与五郎父子に知行召し上げ、永押込め(ながのおしこめ)の沙汰が下る。 奥へ戻されたいちは、名を美崎(みさき)と改めさせられ、老女として容貞の側に侍ることになった。間近で我が子の成長を見守りながらも生母としての扱いはされず、容貞の将軍家への御目見のお供に加えられることもなかった。このような扱いのためにいちは連れ戻されたのかと思うと、伊三郎と与五郎は歯ぎしりせずにはおられなかった。 享保16年9月、正容が死去して間もなく美崎は血を吐いて倒れ、奥務めを退いた。病に倒れた藩主の生母を慮って、家老らが江戸から医師・森喜内を遣わしたが、美崎は自分は笹原与五郎の妻であり、そのような厚遇を受ける理由がないから、と治療を拒んだ。森は医師としての務めを果たさねばならないからと、美崎の身の上話を聞きながら治療を受け入れてもらった。容貞が藩主となった好機には周りから勧められたにもかかわらず、美崎は死ぬまで伊三郎と与五郎の赦免を願い出ることはなかった。自分は容貞とは何の関係もない老女・美崎、一生その身を貫き、女の幸せを奪った者たちにその小さな意地を立て通したかった、そう話す病身の美崎は世にも美しく見えたそうである。それから2ヶ月しないうちに美崎の命の灯は消え、伊三郎と与五郎は牢を訪れた森からその死を伝えられた。江戸藩邸にもその死の報せは届けられ、最後まで美崎の願いが叶えられることはなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「拝領妻始末」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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