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守貞親王(もりさだ しんのう)は、鎌倉時代前期の皇族。高倉天皇の第二皇子であり、母は坊門信隆の女・殖子(七条院)。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。初め持明院宮(じみょういんの みや)を号し、出家した後は行助入道親王(ぎょうじょ にゅうどう しんのう)を名乗ったが、子の後堀河天皇が即位すると、治天の君として異例の太上天皇号を奉られ法皇として院政を敷いた。薨去の後に後高倉院(ごたかくら いん)の院号が贈られた。 == 来歴 == 乳母は平知盛正室の治部卿局。平家の許で育てられた縁から、寿永2年(1183年)7月の平家の都落ちにの際には安徳天皇の皇太子に擬され、天皇と共に西国へ伴われる。平家滅亡時に救出されて帰京するが、都では既に後鳥羽天皇が即位していた〔『増鏡』巻1「おどろの下」には、後白河法皇が守貞親王と尊成親王(後鳥羽天皇)とを呼び、すぐに自分に懐いた尊成を新帝に擁立したとの記述があるが、実際に尊成と共に呼ばれたのは在京していた守貞の異母弟・惟明親王とされており、これについては『増鏡』作者による演出か、あるいは単なる勘違いの可能性も否定できない。〕。 文治5年(1189年)親王宣下を受け、建久2年(1191年)に元服・加冠。後に持明院基家の女・陳子を妃とし、持明院家ゆかりの持明院を御所として持明院宮を号したが、皇位の望みもない不遇な運命を嘆いて建暦2年(1212年)3月に出家。法名・行助を名乗った。 ところが8年後の承久3年(1221年)に起きた承久の乱によって行助の運は一変する。乱後鎌倉幕府は仲恭天皇を廃位するとともに後鳥羽・土御門・順徳3上皇を配流とし、後鳥羽上皇の後裔のことごとくを配流・出家・臣籍降下させて、その系統による皇位の継承を認めない方針をとった。これによって世俗に在る男子皇族が行助の三男・茂仁王のみとなったのである。そこで幕府は直ちに茂仁王を即位(後堀河天皇)させるとともに、不在となった治天の君にはその父である行助に太上天皇号を奉り、これを法皇として院政を敷かせることにした。皇位に即かず、しかもすでに出家している入道親王に太上天皇号を奉って治天に副えるというのは全く先例のない措置だったが、後鳥羽系の皇族が一掃された以上、他に選択肢はなかったのである。 治天となった行助入道親王は、乱後の朝廷内の混乱を収拾や公武関係の融和に実績を残したものの、わずか2年で腫物を患って薨去。北白河に奉葬され、「後高倉院」の院号を贈られた〔『百錬抄』貞応2年5月14日条に「十四日、太上法皇崩御。後高倉院と号し奉る。北白河に葬ると云々」とある。ただし、北白河のどこに葬られたかは現在に至るまで詳らかでなく、陵は現在も未治定のままである(上野竹次郎『山陵』)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「守貞親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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