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持田 達人(もちだ たつと、1965年4月3日 - )は、福岡県糸島郡志摩町(現・糸島市)出身の柔道家。現役時代は78kg級の選手。身長174cm〔「ZOOM IN 素顔 持田達人」近代柔道 ベースボールマガジン社、1989年5月号、76項-77項〕。 == 来歴 == === 講道学舎での6年間 === 小学生の頃は町道場に籍を置いてはいたものの、主にラグビーをやっていてウィングとして活躍した。 東京に柔道私塾・講道学舎が設立され、叔父の辰次〔現役時代はダイニッカに所属し、全日本実業柔道個人選手権大会(1972年)で準優勝等の成績を残した。後に故郷の志摩町にて「志摩少年柔道大会」の開催に尽力。〕が初代師範を務める事となると、生来より運動神経の良かった達人に白羽の矢が立ち、中学入学と同時に上京し講道学舎にて柔道を本格的に始める事となった〔〔。持田ら講道学舎の4期生はわずか6人だが、飛松秀樹や古賀元博(古賀稔彦の兄)ら小学生チャンピオンが3人おり、柔道未経験者で身長も150cmに満たない持田はゴミのように扱われた〔。持田曰く、指が腫れるまで受け身の練習を続けた最初の半年が特にキツく、“達人”という名前も重荷に感じる程だったという〔。 持田の義理の叔母で、後に講道学舎の名物ママさんとして知られる中山美恵子から「何でもいいから同級生の中で一番になれ」とアドバイスを受け、最弱の持田は“誰よりも元気を出す”“中高6年間で1年間に1人ずつ抜いて、高校3年生で1番になる”という2つの目標を立てた〔。 弱いなりにも声を出して元気の良かった持田は次第に仲間から稽古をつけてもらえるようになり、生まれつきの運動神経の良さとも相まって徐々に実力を付けていった。また当時の講道学舎は大沢慶巳や岡野功〔岡野の「人の何倍も努力すれば、カネでは買えない感動が感動が貰える」というセリフと、そう語った時の笑顔が特に印象的だったと、持田は後に雑誌のインタビューで語っている。〕、南喜陽、上口孝文、吉村和郎といった往年の名選手が指導者として活躍し、持田を含め学生たちは“正しい柔道”を身に付ける事ができた〔。持田は「地元・福岡で柔道を経験せず、まっさらな状態だったからこそ、何でも吸収できた」と述懐する〔。豊富な練習量と指導者に恵まれた弦巻中学は、持田が3年の時に全国中学校大会の団体戦で3位という成績を残しているほか、持田はレギュラーではなかったものの世田谷学園高校2年の時に同校は金鷲旗大会で優勝を飾っている。 また小躯を克服するため食べて食べて食べまくった(持田・談)甲斐もあり、高校2年生の頃には同級生に体格負けしなくなると、高校3年次に団体戦レギュラーの座を掴んで春の全国高校選手権では3位に輝いた。また東京都選手権(体重無差別の個人戦)では世田谷学園の同級生がひしめく中で優勝を果たし、終に2つ目の目標も達成〔持田によれば、同じ世田谷学園の選手との試合では相手が持田に対して「コイツには勝てない、執念には敵わない」と感じているのが伝わってきたという。〕〔。夏の金鷲旗では連覇こそならなかったものの、3位という好成績を残している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「持田達人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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