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振武寮(しんぶりょう)とは、福岡の旧日本陸軍第6航空軍司令部内におかれた施設。軍司令部のあった福岡高等女学校(現福岡県立福岡中央高等学校)向かいであり、福岡女学院の寄宿舎を接収して設置された。所在地には現在福岡市九電記念体育館が建つ。実質的な管理者は陸軍の特攻を指揮した菅原道大中将部下の倉澤清忠少佐。戦後、長らく知られてこなかったが、映画『月光の夏』の上映以降で近年その存在が明らかにされた。 == 概要 == 振武隊(西日本にあった陸軍航空部隊第6航空軍指揮下の特別攻撃隊の名称)の特攻隊員として出撃したが、何らかの要因により攻撃に至らずに基地に帰還した特攻隊員が収容された施設である。要因とは様々あり、悪天候・エンジントラブル・機器トラブル・敵機の攻撃のような外的要因から、内的要因まであった。 2000年代以降の調査・研究によると、振武寮に収容された特攻隊員の多くが1~2週間程度、最短では3日程度で他部隊への転属または元所属部隊へ復帰したとの記録も残っており、上記に示すような懲罰的要素を主とした施設ではなく、隊員の休養等を目的とした保養施設ではないかとの見解もある。 特攻隊員は一方向・一回限りの攻撃であり(実際は敵戦闘機に遭遇したら引き返すよう指示)、その原則を崩すと隊員の士気に関わると考えた特攻隊の指揮官は、これらの帰還特攻隊員を他の特攻隊員から隔離するべしと命令を下したとされる。また死して軍神となったのに実は生きていたとなると大本営発表の虚偽が露見するところとなるため、一般軍人や一般市民からも隔離されたといわれ。振武寮に送致された帰還特攻隊員が、自分より先に特攻で出撃し戦死したとされていた同僚と再会することもあったという。 帰還特攻隊員は帰還の直後に福岡の司令部に出頭命令が下り、即座に振武寮にて事実上の軟禁状態に置かれることになる。振武寮の日々は反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経など精神再教育的なものが延々と続けられた。死して軍神となるはずの特攻隊員が生きて戻ってきたことは激しく非難され、「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵られたという。振武寮の目的は帰還隊員にもう一度死を覚悟させて特攻に赴かせるものであったともいわれ、隊員のなかには精神的に追い詰められ、自殺を図る者もいたといわれる。 振武寮に関する公的資料はいまだ発見されず(私文書で「振武寮」という言葉のあるものは存在する)、また振武寮の存在は当時の軍の機密事項に属したため、今でも知る人は少ない。振武寮が存在した期間は1945年の5月から6月頃までの1ヶ月半ほどで、約80人が収容されたといわれている。また、振武寮そのものは1945年6月19日の福岡大空襲で焼失したという説も、終戦まで存在したという説もあり、どのように役割を終えたのかは明らかになっていない。 NHKの番組「ETV特集」『許されなかった帰還 ~福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争~』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育)の中で収容された元特攻隊員と特攻作戦および振武寮を指揮統括していた倉澤少佐の証言が紹介され、その実体の一部が明らかとなった。また、第6航空軍が作成した『振武隊編成表』によると、特攻隊員1276人中605人が生還したことが判明するが(ただし、これは待機特攻隊分も含まれる)、そのうち一部の隊員の備考欄に「在福岡」の記載が見受けられ、これは振武寮に送致されたことを意味すると考えられる。 倉澤は印刷会社の役員になったものの、1945年の終戦から1996年までの51年間もの間、生き残りの特攻隊員や遺族の報復を恐れて、軍刀や拳銃を隠し持っていた。「多くの隊員を出撃させたので、恨みに思われるのは仕方ないし、遺族からも反感を買っているので、いつ報復されるかわからないと、夜も安心して寝ることができなかった。80歳までは自己防衛のために、ピストルに実弾を込めて持ち歩き、家では軍刀を手離さなかったんです」と告白している〔『特攻隊振武寮』p.282〕。 拳銃は「敗戦時に父に預けたものが遺品の中から偶然出てきた」として警察に提出し、そのまま認められたという〔『特攻隊振武寮』p.283〕。 倉沢の証言は、作家の林えいだいが聞き取る形で2003年に4度にわたっておこなわれ、その年の10月に倉沢は86歳で世を去った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「振武寮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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