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掛川藩 : ミニ英和和英辞書
掛川藩[かけがわはん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [はん]
  1. (n,n-suf) fiefdom 2. domain (precursor to current prefectures) 

掛川藩 : ウィキペディア日本語版
掛川藩[かけがわはん]
掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した。政庁は掛川城に置かれた。
== 歴史 ==
掛川は古くは懸川と書かれた。戦国時代にこの地を支配していたのは今川氏であったが、時の当主・今川義元織田信長によって桶狭間の戦いで討たれ、後を継いだ今川氏真の力不足もあって今川氏が衰退すると、それまで今川氏の同盟者であった武田信玄が同盟を破棄して侵攻してきた。氏真は駿府から逃亡し、今川氏の忠臣と言われた朝比奈泰朝が守る掛川城に立て籠もって抵抗したが、徳川家康の攻撃を受けて開城を余儀なくされた。とはいえ、武田・徳川の連合軍相手に長く持ちこたえた掛川城の重要性は大きく、家康は譜代の家臣である石川家成石川康通父子を入れて守らせている。
小田原征伐後、家康が関東に加増移封されると、掛川には豊臣氏の家臣・山内一豊が入った。一豊は豊臣秀吉の死後は家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、自らの居城である掛川城を真先に家康に提供し、家康に与することを正式に表明してその歓心を得た。このため戦後、その功績を賞されて一豊は掛川から高知に遷り、土佐国に加増移封されたのである。
慶長6年(1601年)2月、下総国小南から家康の異父弟・松平定勝が3万石で入るが、定勝は慶長12年(1607年)4月29日に伏見城代となって伏見藩に移封されたため、掛川の地は彼の次男・松平定行が継いだ。なお、長男の松平定吉(定友)は慶長8年(1603年)に自害し、定勝はこれを弔うために遠江塚を築いている。定行は元和3年(1617年)7月、伊勢国桑名藩に移され、代わって安藤直次が2万8000石で入った。しかし家康の子・徳川頼宣紀伊藩和歌山市)に移されると、直次はその御附家老という経緯から、紀伊田辺藩に移封されることとなった。
代わって松平定綱常陸国下妻藩から3万石で入ったが、元和9年(1623年)に山城国淀藩に移され、代わって駿河大納言徳川忠長の附家老・朝倉宣正が2万6000石で入った。しかし寛永9年(1632年)、忠長が幕命によって改易されると連座して改易され、大和国郡山藩に流罪に処せられた。
翌年2月3日、常陸国より青山幸成が2万6000石で入る。後に幸成は3万3000石に加増されたが、寛永12年(1635年)に摂津国尼崎藩に移され、代わって駿河国田中藩より松平忠重が4万石で入った。寛永16年(1639年)2月12日に忠重は死去し、後を松平忠倶が継いだが、3月には信濃国飯山藩に移され、代わって本多忠義本多忠勝の孫)が播磨国より7万石で入った。しかし正保元年(1644年)3月、越後国村上藩に移された。
代わって松平忠晴が駿河国田中藩より3万石で入ったが、慶安元年(1648年)閏正月には丹波亀山藩に移された。代わって田中藩より北条氏重が3万石で入ったが、万治元年(1658年)10月1日に氏重は死去。嗣子がなかったため、北条氏は改易となった。
翌年正月28日、三河国西尾藩より井伊直好が3万5000石で入る。直好は寛文12年(1672年)正月6日に死去し、後を継いだ井伊直武元禄7年(1694年)6月8日に死去。その後を継いだのは井伊直朝であるが、宝永2年(1705年)に直朝は発狂して参勤交代をも怠る有様となった。本来なら改易されてもおかしくはなかったが、幕府は井伊氏の祖先である井伊直政の功績などを配慮して、本家の彦根藩から井伊直矩が養嗣子として迎えられて後を継ぐことで存続を許された。ただし同年12月3日、直矩は養父発狂を名目に越後国与板藩に移封を命じられた。これにより分家の井伊氏は城主から無城大名へ降格させられたのである。
代わって信濃国飯山藩より松平忠喬が4万石で入るが、正徳元年(1711年)に摂津国尼崎藩へ移され、代わって武蔵国岩槻藩より小笠原長煕が6万石で入る。長煕は元文4年(1739年)4月21日に隠居し、後を継いだ小笠原長庸延享元年(1744年)7月6日に死去。そしてその後を継いだ小笠原長恭延享3年(1746年)9月、陸奥国棚倉藩へ移封を命じられた。
代わって上野国館林藩より5万石で太田資俊が入り、ようやく藩主家が安定した。以後、藩主家は太田氏により幕末まで7代にわたって続き、慶応4年(1868年)9月、最後の藩主である太田資美が上総国柴山藩(松尾藩)に移ることで掛川藩は廃藩となり、その所領は徳川家達府中藩領となったのである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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