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摂津晴門 : ウィキペディア日本語版
摂津晴門[せっつ はるかど]

摂津 晴門(せっつ はるかど、生没年不詳)は、室町幕府の幕臣。第12代将軍足利義晴より偏諱を受け晴直(はるなお)、のち晴門を名乗る。義晴の子である第13代将軍・足利義輝と第15代将軍・足利義昭の兄弟に家臣として仕える。
鎌倉幕府の時代からその崩壊後、さらに南北朝時代を経て室町幕府にも参画していた中原氏の一族であり、元は摂津守に叙任されていたことから氏族の名を摂津へと改めた摂津氏末裔の一人である〔風雲戦国史-戦国武将の家紋 「武家家伝_摂津氏」参照。http://www2.harimaya.com/sengoku/html/settu_k.html〕。
13代将軍・足利義輝は義理の従兄弟に当たり、永禄7年(1564年)には敵対していた政所執事伊勢貞孝に代わって、新たな政所執事として起用される。だが、その翌年には永禄の変が起こり、二条御所にて義輝以下数十名の家臣が殺害される。また、この永禄の変で嫡子である糸千代丸も死亡している。変後も摂津氏が世襲していた官途奉行の地位は安堵されていたとみられるが、三好氏らが推す次期将軍候補であった足利義栄伊勢貞為(貞孝の孫)の出仕を認めた事に反発し、永禄9年(1566年)5月以降京都を離れる〔木下昌規「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」(初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年/所収:木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2)〕。
永禄11年(1568年)2月にあった足利義栄への将軍宣下に際しては出席を拒み、同月に行われた義輝の弟である足利義昭の元服の奉行を務めていることから、この時には義昭に従っていたとみられる〔。
永禄11年(1568年)10月には、織田信長浅井長政の上洛軍に警護されて上洛した足利義昭が将軍に就任する。兄・義輝と同じように、義昭も再び晴門を政所執事として起用した。その後、元亀2年(1571年)1月を最後に記録から姿を消し(『言継卿記』元亀2年1月25日条)、同年11月には伊勢貞興(貞為の弟)が政所執事に任じられていることから、同年のうちに死去または引退したとみられている〔木下昌規「京都支配から見る足利義昭期室町幕府と織田権力」『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2 (原論文:2010年・2012年)〕。
== 脚注 ==

はるかと
category:戦国武将

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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