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支倉常長 : ミニ英和和英辞書
支倉常長[はせくら つねなが]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
: [とわ, じょう]
  1. (adj-na,n) eternity 2. perpetuity 3. immortality
: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 

支倉常長 : ウィキペディア日本語版
支倉常長[はせくら つねなが]

支倉 常長(はせくら つねなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将桓武天皇を祖先とする血筋でありながらも伊達氏の家臣として活躍。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。幼名は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ
== 生涯 ==
元亀2年(1571年)、桓武天皇を祖先とする山口常成の子として羽州置賜郡長井荘立石邑(山形県米沢市立石)に生まれる。その後、伯父支倉時正の養子となり、7歳から宮城県川崎町支倉地区に在する上楯城で長い青年期を過ごした〔http://kawasaki-tsunenagatai.jp〕。支倉家の苗字も現宮城県川崎町支倉地区として高名な旧支倉村が発祥地となっている〔http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=支倉〕。その後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し、600石取りとなる。
文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍した。また大崎・葛西一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。
慶長14年(1609年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康ウィリアム・アダムスの建造したガレオン船を贈りヌエバ・エスパーニャ副王領へ送還した。この事をきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。
こうしたエスパーニャとの交流ができたことにより、常長の主君である伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定した。遣欧使節はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を副使とし、常長は正使となり、180人から組織され、エスパーニャを経由してローマに赴くことになった。遣欧の目的は通商交渉とされているが、エスパーニャとの軍事同盟によって伊達政宗が倒幕を行おうとした説も存在している〔大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』など。〕。
慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号でソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。再度仙台へ戻り、現・石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で慶長18年9月15日1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。なお、短期間に洋式船を建造していることから、最初に座礁したサン・セバスチャン号を譲り受けて修理し、サン・ファン・バウティスタ号として出航させたのではないか、とする説もある〔樫山巌『支倉常長の謎』〕。
出航後、常長らの一行はエスパーニャ(現スペイン)のヌエバ・エスパーニャ副王領であり、北アメリカ大陸の太平洋岸にあるアカプルコ(メキシコ・ゲレーロ州)へ向かった。アカプルコにおいて北アメリカ大陸に上陸を果たすと陸路で大西洋岸のベラクルス(メキシコ・ベラクルス州)に移動、ベラクルスから大西洋を渡り、コリア・デル・リオ(スペイン・アンダルシア州セビリア県)に上陸した。慶長20年1月2日1615年1月30日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見している。その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年9月12日1615年11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。また、その後もマドリードに戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。
しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかった。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日1620年9月20日)に帰国した。
こうしてはるばるローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでに禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所、仙台市青葉区北山にある光明寺(北山五山の1つ)、常長の生まれ故郷とも言える川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町に存在する。
その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。その後、第10代当主の代まで宮城県大郷町に〔http://keizouji.p-kit.com/page240587.html〕 、第11代から現在の第13代支倉常隆に至るまで、宮城県仙台市に居を構え続けている。
常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。また、常長自身が記録した訪欧中の日記文化9年(1812年)まで残存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。なお、資料の中に「支倉」を古典ラテン語表記で ''FAXICVRA'' とつづった部分があり、当時ハ行を唇音で発音していた証拠となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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