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支藩(しはん)は、江戸時代の藩主家の一族が、弟や庶子など、家督相続の権利の無い者に所領を分与する(分知)などして新たに成立させた藩のことである。このほか有力家臣の所領も支藩という場合がある。 幕府からの朱印状が本家とは別に発給されている場合は、本藩-支藩関係にはないという考え方もある。 == 役割 == 支藩を創設することは、ある藩が新たに別の藩を創設することであり、幕府の認可が無ければ正式に立藩することはできなかった。ただし、江戸時代における支藩の意義は大きく、参勤交代による本家当主不在時などに本家の代理として活動したり、本家の当主が幼少である場合の後見役としても活動したりした。例として盛岡藩の南部利用が幼少で藩主となると、支藩七戸藩の南部信鄰が藩政後見を行っている。 また本家(本藩)において藩主が早世したり世子が無かったときには、支藩から養子を迎えることで、無嗣断絶の危機を逃れる例が少なくなかった。 例として、伊勢津藩の藤堂氏においては、第4代藩主・藤堂高睦の子がことごとく早世したが、支藩の伊勢久居藩より養子を迎え、断絶を免れている。 長州藩の毛利氏においては、毛利輝元の実子の秀就の系統が、第4代藩主の吉広で絶えた。輝元のもとの養嗣子の毛利秀元は、輝元に実子が誕生した後は嗣子の座を降りて別家を立て、関ヶ原の合戦後は長州藩の支藩である長府藩主家となっていた。長府藩主家から吉元が毛利宗家を継ぎ、長州藩第5代藩主となった。長州藩主(毛利氏宗家)は、以後は秀元の系統に移った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「支藩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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