|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 攻め : [せめ] 【名詞】 1. attack 2. offence 3. offense
蔦 文也(つた ふみや、1923年(大正12年) 8月28日 - 2001年(平成13年) 4月28日)は、プロ野球選手(投手)、徳島県立池田高等学校野球部元監督。「攻めダルマ」の異名を持ち、「さわやかイレブン」「やまびこ打線」として知られる池田高校野球部を40年間指導。選抜高等学校野球大会、全国高等学校野球選手権大会において、優勝3回(春夏連覇1回)、準優勝2回の実績をあげた。池田町名誉町民第1号。 孫に映像作家の蔦哲一朗がおり、監督としてドキュメンタリー映画『蔦監督―高校野球を変えた男の真実―』を制作している(平成27年12月27日公開)〔。2014年に池田高校が22年ぶりに甲子園出場を決めたのを機に、蔦をモデルとしたご当地キャラ「つたはーん」が製作されている〔〔。 == 生涯 == 1923年に徳島県徳島市で生まれ、旧家の一人息子として裕福に育った。徳島県立商業学校に進学し、稲原幸雄監督の指揮で1939年の春に一塁手として、翌1940年の春・夏には投手として甲子園に出場している。同校卒業後、同志社大学経済学部に入学し野球部に所属するが、学徒出陣で太平洋戦争に出征。特攻隊員となるも、出撃前に終戦を迎えた。 戦後、同志社大学卒業後、日鉄広畑に半年間所属し帰郷。日本通運に勤務する傍ら、稲原が監督を務める全徳島に加入し都市対抗野球大会に3度出場する。1950年に東急フライヤーズに投手として入団したが、わずか1年で退団し再び帰郷した。 故郷・徳島の池田高校が野球部の指導者を探していたことから、1951年、池田高校に社会科教諭として赴任する。その授業はいつも本題そっちのけで専ら野球の話でもちきりだった。翌1952年から同校の野球部監督に就任。しかし当時の野球部には、戦後の物不足の影響もありボールが3個とバットも2本しかなかったほどのお粗末な環境であった。 長い間母校・徳島商の厚い壁に跳ね返され続けたが、1971年夏の大会にて、池田高校は甲子園初出場を果たした。1974年春には、「さわやかイレブン」と呼ばれたわずか11人の部員で準優勝、1979年夏にも箕島高校に惜敗したものの準優勝を記録した。 1980年頃から、芯を少々外していても筋力があれば打球を飛ばせる金属バットの特性を最大限に生かすため、筋力トレーニングを積極的に行い「やまびこ打線」というニックネームがついた強力打線で、以後の高校野球のスタイルをも変えてしまった。チームも1982年夏、1983年春と夏春連覇を達成し、名実ともに黄金時代を迎える。当時の池田高校は、類まれなる強さと、蔦のキャラクターもあり、高校野球史上屈指の人気校となった。 監督として甲子園に春夏通算14回(監督として最後の甲子園出場は1988年夏。岡田康志コーチが指揮を代理した1991年夏を含めると15回)出場し、37勝、優勝3回、準優勝2回という素晴らしい成績を残すも、68歳・監督就任40年目の1992年に勇退した。ノックが打てないほど年老いたことが直接の原因である。同年7月には「池田町名誉町民第1号」に選ばれた。その後の数年間、野球部の顧問を務めていたが、体調を崩し入退院を繰り返していた。 2001年4月28日に肺癌のため池田町内の病院で死去した。。葬儀には水野雄仁など多くの教え子が参列した。蔦の自宅は今もJR阿波池田駅の近くに残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蔦文也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|