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放熱への証 : ミニ英和和英辞書
放熱への証[ほうねつへのあかし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ねつ]
  1. (n,n-suf) fever 2. temperature 
: [あかし, しょう]
 (n) 1. proof 2. evidence

放熱への証 : ウィキペディア日本語版
放熱への証[ほうねつへのあかし]

放熱への証』(ほうねつへのあかし)は、日本ミュージシャンである尾崎豊の6作目のアルバム。英題は『''CONFESSION FOR EXIST''』(コンフェッション・フォー・イグジスト)。
== 背景 ==
1990年に入り音楽事務所マザーエンタープライズと決別し、新たな事務所である「ロード アンド スカイ」、新たなレコード会社として「CBSソニー」へと移籍し、11月に2年2か月ぶりとなるアルバム『誕生』をリリースした尾崎であったが、アルバムリリースの直後に「ロード アンド スカイ」を離脱する事となる。原因は、周囲の人間が金儲けのために自分に近づいているという猜疑心から来るものであった。
代表取締役社長である高橋信彦は、「業界に対して、非常に不信感を持っているなと思いました。だから、僕としては、彼がこの先、ひとり立ちをしてもいいように、音楽業界というもののシステムや、人間とのつながりの大切さなどを身につけていってほしいと思ったんです。疑ってかかるよりも、まず、知ることを」と語っている。しかし、尾崎はマスコミ不信を顕にし、雑誌の取材などでも突然怒り出すことや、難解な言葉を多用してインタビューが成立しない事などが多々あったため、高橋は全てのインタビューを須藤晃が行うように要請する事となった〔。
ある日『週刊プレイボーイ』の取材当日に尾崎が現れず、確認したところ手に怪我をし、病院に向かったためであると判明した。尾崎は手を9針縫っており、手には包帯が巻かれていた〔この傷は自殺を図ったものであり、後にコンサートツアー「TOUR 1991 BIRTH ARENA TOUR 約束の日 THE DAY」のパンフレットにもその事が記載されている。〕。取材を終えた尾崎は、その足で「ロード アンド スカイ」に赴き、事務所を辞める意向を伝えるとともに、高橋と一緒に事務所を作りたいという要請をする。しかし、高橋は取材などの仕事でしか尾崎と接触していなかったため、疑心暗鬼の対象となっておらず、状況が変われば自分にも疑いの目が向けられると悟り、その要請を断った〔。
1990年末、「ロード アンド スカイ」を離脱した尾崎は、自らが社長となり音楽事務所「アイソトープ」を設立、経営には家族が参加する事となった。「代表取締役 尾崎豊」という名刺を作成し、ヴェルサーチのスーツを着用してトラサルディのセカンドバッグを持ち、コンサートツアーのブッキングやバンドメンバーの招集を自ら行う事となった。その後、「ロード アンド スカイ」在籍時に仮決定していた「BIRTH」ツアーが事務所を辞めた事で白紙に戻されていたため、再度イベンターへと掛け合うものの、度重なる中止やキャンセルによって信頼されておらず、また経営に不慣れなミュージシャンが取り仕切っている事もあり、理解を得るまでに時間を要する事となった〔。
結局、1991年5月20日の横浜アリーナ公演を皮切りに、コンサートツアー「TOUR 1991 BIRTH」が34都市全48公演行われる事となった。公演の中止やキャンセルの許されない状況で、尾崎は必ずツアー先のホテルではスポーツクラブとサウナがある所を選定し、体力作りを行っていた。その甲斐もあってか、ツアーは1本も中止される事なく大成功に終わった。しかし、ステージを降りると、スタッフの些細な言動に腹を立てる事も多くなっており、ツアーが終る頃には事務所のスタッフが総入れ替えとなっていた〔。
その数か月後、辞めたスタッフの代わりに全ての事務を引き継いでいた母親が、疲労から来る心筋梗塞で死去してしまう(享年61)。その後の尾崎は以前にも増して酒の量が増え、自暴自棄になっていたという。翌1992年、本作が完成したばかりの4月25日に、東京都足立区千住河原町の民家の庭で泥酔状態で発見され、妻と兄と共に自宅マンションに帰宅するも、突如危篤状態となり、救急車で日本医科大学の緊急病棟に収容される。蘇生措置がされるが午後0時6分死亡が確認された(享年27)〔。
4月30日には東京都文京区の護国寺で追悼式が行われ、3万7500人ものファンが詰め掛ける事となった〔。その後、本作は遺作としてリリースされた。
オリコンチャートでは2週連続で1位を獲得。累計109.8万枚を売り上げ、ミリオンセラーを達成した。
== 録音 ==
本アルバムでは作詞、作曲だけでなく、プロデュース、ディレクション、アレンジ全てを尾崎自身が行っている。
レコーディングは1991年末から準備が進められ、1992年1月から3月にかけて行われた。
演奏はギター、ベース、ドラムス、キーボードというオーソドックスなバンド編成を基調とし、アレンジ的にもサウンドのバランスにおいても、音色面においても安定した構造のなかにコンパクトにまとめあげられており、相対的にボーカルが際立つサウンド配分となっている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「放熱への証」の詳細全文を読む




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