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救国戦線評議会(きゅうこくせんせんひょうぎかい、)とは、1989年のルーマニア革命直後から1990年5月までルーマニアの暫定政府を担った統治組織 (governing body)であり、後に政党化した。日本では、救国戦線(きゅうこくせんせん)とも呼ばれる。1992年の組織分裂後は、現在のルーマニアにおいて主要な政党である社会民主党(PSD、中道左派)と民主自由党(PD-L、中道右派)に衣替えしている。 ==歴史== ===結成と政権獲得=== 救国戦線評議会(以下、FSN)、はルーマニア革命最中の1989年12月22日に結成され、ルーマニア共産党当局から国家権力を奪取した。当初、評議会議長(暫定国家元首)にイオン・イリエスクが就任したが、彼はペトレ・ロマン(Petre Roman)を臨時首相に任命した。当時、FSNの主要メンバーとしてはほかにドゥミトル・マジル (Dumitru Mazilu)、シルヴィウ・ブルカン (Silviu Brucan)、ミルチャ・ディネスク (Mircea Dinescu)、イオン・カラミトル (Ion Caramitru) がいた。 FSNはルーマニアにおける一党独裁制の廃止と複数政党制による選挙の召集を布告した。それから間もなく共産党以後の2つの重要なルーマニア人による政党として、民族農民党(現在のキリスト教民主民族農民党 / PNŢCD)と国民自由党(PNL)がそれぞれ政党登録した。 当初は選挙への候補擁立は行わない方針だったが、革命から1カ月余りを経た1990年2月6日にFSNは組織を政党化し、革命後初となる自由選挙に候補者を擁立する方向に転換。一方で、旧共産党において重要党員であった者をほぼ包括していたFSNの政党化は、一部の国民からルーマニアから共産主義が追い出されないのではないかという不安ももたらした。 これを受けて野党の国民自由党と民族農民党は反FSNのデモを1990年の1月下旬と2月下旬に展開した。それに対してイオン・イリエスクは労働者階級に「国を動揺させようとするファシスト勢力」に対する批判を行うと同時に、FSNに対する支持を呼びかけた。 その後、FSNは暫定政府への他政党参加を容認することとなり、新しい統治組織として暫定国家統一評議会(Consiliul Provizoriu de Uniune Naţională, CPUN)が発足した。CPUNは1990年2月初頭から5月の選挙実施までの間国家運営を行なったが、FSNによる支配は依然として続いた。 1990年5月20日に行われた選挙によって正式な政府が発足し、イオン・イリエスクが大統領に就任した。イリエスクは他の東欧革命が起こった国の首脳とは異なり、社会主義を維持する意向を示していた。そのことなどを受け、選挙へのFSN参加に反対するデモ (Golaniad)が4月から7月13-15日までの52日間にわたって、以前のデモよりもはるかに大規模で実施された。しかし最終的にデモは暴力的な手段によって鎮圧された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「救国戦線評議会」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 National Salvation Front (Romania) 」があります。 スポンサード リンク
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