|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 袖 : [そで] 【名詞】 1. sleeve
『救瘟袖暦』(きゅうおんそでごよみ、''Kyuon Sodegoyomi'')は、江戸時代の寛政年間に仙台藩江戸詰めの藩医工藤球卿(工藤平助)によって著わされた医学書。張機『傷寒論』を踏まえた医書である。刊本には平助の友人であった蘭学者大槻玄沢の序が付される。 == 概要 == 『救瘟袖暦』は、寛政9年(1797年)2月、64歳の工藤平助の手になる医学書であり、その続編にあたる『救瘟袖暦』第二篇は翌寛政10年(1798年)11月に著された。 『傷寒雑病論』の著者である後漢の張機は、古来東洋医学において「医聖」と呼ばれてきた人物であり、『傷寒雑病論』のうちの『傷寒論』は伝染性の諸病の治療法を記したものとして古くより漢方医学において聖典視されてきた。 工藤平助は、『救瘟袖暦』自序において、熱病に対する治療の方針は、『傷寒論』に依拠し、患者の病態をよく理解したうえで定めるべきものであるが、熱病は、一方では年々あるいは時節の変化によっても多様な諸症状を呈するものであるため、『傷寒論』記載の治療法を常に墨守することに意を注ぐのはむしろ適当ではなく、個々の病人の症状や様態に応じて治療法を検討すべきであるとし、本書では、みずから経験した治療法の得失をあまねく公開することによって、医学を目指す諸氏の参照に供したいとの趣旨を述べている。 『救瘟袖暦』の内容は、熱病の分類と治療法について、『傷寒論』を基本としながらも平助自身の40年にわたる臨床経験にもとづき創意工夫を加えた医学入門書となっており、「瘧説」「脉説」「舌候」「汗候」「大便候」「小便候」など13項目にわたって詳細に解説が施されている〔関(2008)p.121-122。〕。その文体は、句読点と送り仮名を施した漢文に仮名まじりの読み下し文を加えたもので、初学者が学ぶのに好適なものとなっている。平助の私塾「晩功堂」では医業が講じられており、そのテキストとして門人に医業を授ける目的で著述されたものと考えられる〔門玲子只野真葛小伝 〕。 医師としても優れた力量をもつ工藤平助が、晩年にいたって医学入門書を著した動機については、平助の養父で名医といわれた博覧強記の人工藤安世が、13歳で養子に入った平助には厳しい自学自習を課しながらも充分な医業を授けないで死去してしまった経験を踏まえ、みずからの高齢を自覚して、いままで修得した医術の一部をまとめておく必要を感じたためと考えられる〔。 これを前後に平助は病気がちになり、寛政10年に著された『救瘟袖暦』第二篇は、病身を押して執筆されたものと推測される〔関(2008)p.151〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「救瘟袖暦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|