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敵討 : ミニ英和和英辞書
敵討[かたきうち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [てき]
 【名詞】 1. (1) enemy 2. rival 3. (2) opponent 

敵討 : ウィキペディア日本語版
敵討[かたきうち]

敵討(かたきうち)、または仇討ち(あだうち)は、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う中世日本の制度。武士が台頭した中世期からの慣行であり、江戸期には警察権の範囲として制度化された。基本的に、子が親の仇を討つなど、血縁関係がある目上の親族のために行う復讐を指した。
== 歴史 ==
日本書紀』巻十四雄略紀には、456年(安康天皇3年)に起きた「眉輪王の変」の記事があり、これが史料に残る最古の敵討事件とされる。眉輪王の義理の父にあたる安康天皇はかつて眉輪王の父である大草香皇子を殺し、母である中磯皇女を自らの妃とした。安康天皇はある日ふとその事を漏らし、それを聞いた眉輪王は安康天皇が熟睡しているところを刺し殺した。事件後、その動機を追及された眉輪王は「臣元不求天位、唯報父仇而已」(私は皇位を狙ったのではない、ただ父の仇に報いただけだ)と答えている。
その後、仇討ちは、中世武士階級の台頭以来、その血族意識から起こった風俗として広く見られるようになり、江戸幕府によって法制化されるに至ってその形式が完成された。その範囲は、父母や兄等尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。また、家臣が主君のために行うなど、血縁関係のない者について行われることは少なかった。
江戸時代において殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた。しかし、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められた。
武士身分の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。無許可の敵討の例もあったが、現地の役人が調査し、敵討であると認められなければ殺人として罰せられた。また、敵討をした相手に対して復讐をする重敵討は禁止されていた。
敵討の許可が行われたのは基本的に武士階級についてのみであったが、それ以外の身分でも敵討を行う者はまま見られ、上記のような手続きを踏まなかった武士階級の敵討同様、孝子の所業として大目に見られ、場合によっては賞賛されることが多かった。又武家の当主が殺害された場合、その嫡子が相手を敵討ちしなければ、家名の継承が許されないとする慣習も広く見られた。
なお、敵討は決闘であるため、敵とされる側にもこれを迎え撃つ正当防衛が認められており、殺害した場合は「返り討ち」と呼ばれる。
近親者を殺されてその復讐をする例は、南イタリアを始めとして、世界各地で見られるが、江戸時代の敵討は、喧嘩両成敗を補完する方法として法制化されていたことと、主眼は復讐ではなく武士の意地・面目であるとされていた点に特徴がある。
特に江戸時代には、敵討の中でも曾我兄弟の仇討ち1193年、『曽我物語』)、鍵屋の辻の決闘1634年)、赤穂事件1702年、『忠臣蔵』)は「三大仇討ち」と呼ばれ、多くの作品で人々に親しまれた。ただし、赤穂事件は、主君・浅野の代わりに、その家臣が、吉良を討った事件であるため、「仇討ち」とみなすか単なる「復讐」とみなすか、その意義をめぐっては論争がある〔宮澤(1999) p146〕。
明治になると司法卿江藤新平らによる司法制度の整備が行われ、1873年明治6年)2月7日、明治政府は第37号布告で「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)」を発布し、敵討は禁止された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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