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文定王后(ぶんていおうごう、ムンジョンワンフ、문정왕후、弘治14年1月14日(1501年2月1日) - 嘉靖44年12月7日(1565年12月29日))は李氏朝鮮第11代国王中宗の3人目の王妃。坡平尹氏。諡号は聖烈仁明文定王后。坡山府院君 靖平公 尹之任と全城府夫人 李氏の娘。 == 生涯 == 1515年に章敬王后が産褥死すると、1517年に揀択、17歳で王妃に冊封された。章敬王后の遠縁にあたる。彼女は世子(のちの仁宗)を保護する責任があったので、後日彼女の政治的立場が強化される名分になった。 1534年に慶源大君を産む。 中宗晩年期から弟の尹元衡(小尹)と側近で尹元衡の妻鄭蘭貞らと共に朝政に介入し、1544年11月、中宗が没すると王大妃となり、1545年8月に継子の仁宗が没し、同月に慶源大君が12才で即位して明宗となると大王大妃に転じ、後見として垂簾聴政を行い、優れた政治感覚と儒教的な見識を発揮して家臣たちを制圧した。 陵はソウル特別市蘆原区孔陵洞にある泰陵。 文定王后は仏教を篤く信じていたことから仏教に対する保護政策を図り、身辺に僧侶を近づけるなどしたため、反仏教的な儒者から批判を受けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文定王后」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Queen Munjeong 」があります。 スポンサード リンク
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