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文徳聖皇后 : ミニ英和和英辞書
文徳聖皇后[ふみのり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
: [ひじり, せい]
  1. (pref) saint 2. st.
皇后 : [こうごう]
 【名詞】 1. (Japanese) empress 2. queen 
: [きさき]
 【名詞】 1. empress 2. queen

文徳聖皇后 ( リダイレクト:長孫皇后 ) : ウィキペディア日本語版
長孫皇后[ちょうそんこうごう]
長孫皇后(ちょうそんこうごう、601年 - 636年)は、中国の太宗李世民皇后。小字は観音婢。本貫河南洛陽
==経歴==
の右驍衛将軍長孫晟と継室の高氏のあいだの娘として生まれた。609年、長孫晟が世を去ると、異母兄の長孫安業により母と共に追い出され、母方の伯父の高士廉を頼った。613年、13歳で唐国公李淵の次男の李世民の妻となった。618年、唐が建国されると、秦王妃に立てられた。626年玄武門の変の後に皇太子妃となり、李世民が即位すると、皇后に冊立された。太宗との間に、下記のように3男4女をもうけた。
皇后は礼法を尊び、いにしえの善悪を鑑として自らを律したとされる。生活は質素で華美な衣服を取らなかったという。他の妃嬪が難産で亡くなったときには、生まれた子である予章公主を、自分の腹を痛めた子のように養育した。李世民が政治向きのことを皇后に尋ねると、「雌鶏が夜明けを告げると、家は窮乏します」と言って、なかなか答えようとしなかった。しかし兄の長孫無忌が唐朝で重用されるのには、の呂氏や霍氏の前例を持ち出して反対し、異母兄の長孫安業が李孝常の乱に連座して処刑されようとしたときには、叩頭して助命を嘆願した。
634年、九成宮に行幸して病の床についた。636年、36歳の若さで世を去り、昭陵に陪葬された。諡号を文徳聖皇后といった。彼女の死後、太宗は皇后をたてず、その陵墓をいつもながめていたといわれる。
著書に、今は散逸したが、『女則』10篇があった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「長孫皇后」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Empress Zhangsun 」があります。




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