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文徴明(ぶんちょうめい、男性、成化6年11月6日(1470年) - 嘉靖38年2月20日(1559年))は中国明代中期に活躍した文人である。詩書画に巧みで三絶と称され、とりわけ画においては呉派文人画の領袖である沈周の後を受け継ぎ、沈周・唐寅・仇英とともに明代四大家に加えられた。 長洲県(江蘇省蘇州市)の人。幼名を璧、字を徴明としたが名前のようになってしまったので徴仲と改めた。衡山、衡山居士、停雲生と号し、文衡山と呼ばれることも多く、また官名から文待詔とも称された。 == 生涯 == 南宋末の忠臣である文天祥を祖に持つ名門の出身で、父の文林は進士に及第して温州府(現在の浙江省永嘉県)の知事まで上った。 文徴明は幼少のころ、発育が悪く言葉が遅れており利発でなかったが、父文林は我が子が晩成であることを見抜き教育に力を注いだ。文林はその高潔な人柄から人望が高く、蘇州の芸苑に多くの友人をもっていた。このため文徴明はこの父の友人を師とすることが出来た。古文は呉寛に、画は沈周、書を李応禎に学んだが、いずれも当時超一流の人物だった。にもかかわらず26歳の時、科挙を受けたが失敗し以後25年間もの間、挑み続けるがついに及第することはなかった。謹厳で機転のきかない性格であったため試験に必須の八股文を学ぼうとしなかったからともいわれる。 文徴明の青年期は同郷で年齢も近い唐寅や祝允明らと文雅な交友が知られる。このころは天才型の彼らの中にあって彼の芸術は二番手に甘んじていた。それでも徐々に詩書画で名声を博すと、55歳にして縁故により翰林院待詔に推薦され、『武宗実録』の編集に携わった。しかし、暗愚な皇帝と腐敗した政治、官界からの排斥などが重なり、嫌気が差して57歳のときに致仕して帰郷してしまう。 蘇州では玉磬山房を築き隠逸。王寵・銭穀・陸師道・陳道復・王穀祥・彭年・周天球らと盛んに交友し文芸三昧に耽る。以降長寿を全うする30年間を蘇州芸苑の重鎮として幸福な人生を送る。知人の墓碑銘を揮毫し書き終わらないうちに筆をおき端座したまま安らかに卒したという。諡は貞献先生。享年90。 文氏の家系には文芸に秀でた者が多く輩出され、特にこれを文派という。子の文彭・文嘉、甥の文伯仁、姪の文台、孫の文元善、孫娘の文英、曾孫の文楠・文震亨、さらに子孫の文従簡・文点・文掞・文俶らである。また門下には王寵・陳淳・居節などが育った。 著述に『甫田集』があり、詩文の代表作に「西苑詩」が挙げられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文徴明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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