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文成文明皇后(ぶんせいぶんめいこうごう、442年 - 490年9月)は、北魏の文成帝の皇后。馮太后(ふうたいごう)と称されることが多い。 == 生涯 == 父は秦州・雍州刺史馮朗。母は王氏。父の家系は五胡十六国時代から南北朝時代初期にかけて遼東を支配した北燕の皇族であるが、この北燕は北魏により滅ぼされ、馮郎は北魏に降って重用されていた。しかし馮朗は罪を問われて誅殺され、身寄りをなくし幼かった馮太后は、北魏の太武帝の左昭儀(後宮における称号で皇后に次ぐ地位)だった叔母の馮氏 に従って後宮入りした。14歳の時、太武帝の孫で第5代皇帝である文成帝の貴人となった。後に皇后となるが、文成帝は465年に若くして崩御し、彼女は悲しみのあまりに文成帝の遺体を火葬する際に火中に身投げしたが救出されて一命を取り止めた。 文成帝の跡を継いだ息子の献文帝の代には、義母として皇太后として補佐にあたった。しかし献文帝が成長するにつれて対立が生じ、皇太后は献文帝を脅迫して471年には息子の拓跋宏(孝文帝)に譲位させた。しかし献文帝も報復として太皇太后が寵愛していた家臣李奕を殺害したため、476年に献文帝を毒殺し、北魏の政権を完全に掌握した。 太皇太后は抜群の政治手腕を見せた。同姓不婚・俸禄制・均田制・三長制・租調制など様々な政治改革を行ない、北魏の全盛期をもたらした。一方で丞相乙渾など政敵に対しても容赦なく処分し、謀反の目を事前に摘み取る切れ味も持っていた。 晩年の太皇太后は寵愛する家臣だけを側に侍らせ、斉の使者が美男子だったことを知ると自らの宮殿に閉じ込めて帰還を許さなかったなどの行状も伝えられている。490年9月に死去。享年49。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文成文明皇后」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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