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姚 興(よう こう)は、五胡十六国時代の後秦の第2代皇帝。 == 生涯 == 建初8年(393年)に父の武昭帝姚萇が崩御すると、長男(末子との記述もある)とされる姚興が大秦皇帝に即位した。皇初元年(394年)、攻め込んできた前秦の苻登を撃退すると、同年、これを馬毛山(現在の甘粛省平涼市)に討って処刑した。ここに後秦による関中の統一が実現した。 文桓帝はこの後も盛んに外征を繰り返し、皇初3年(396年)にオルドスを占領し、皇初6年(399年)に洛陽を陥落させ、弘始2年(400年)には西秦を滅ぼし、弘始3年(401年)に後涼を降して河西の諸政権を従属させた。弘始4年(402年)に北魏と戦って大敗したものの、弘始5年(403年)に東晋から淮河以北の広大な地域を占領し、弘始7年(405年)に後仇池を降伏させるなど、華北に巨大な勢力を築き上げた。 一方で文桓帝は仏教を篤く信奉しており、弘始2年(401年)に後涼を降伏させると、亀茲僧の鳩摩羅什を都常安へ招聘した。文桓帝は鳩摩羅什を国師として拝し、各地に寺院を建立して手厚く保護した。文桓帝自身も熱心に仏典を追究し、鳩摩羅什に請いて特に『実相論』『維摩経注』を訳出させたといわれる。なお、文桓帝の弟の大将軍姚顕や左将軍姚嵩も篤く鳩摩羅什を信奉し、しばしば説法に参加したという。弘始7年(405年)、文桓帝は巨大化した仏僧集団を整備するため、鳩摩羅什の弟子僧肇を初代大僧正に任命して、これを統制した。 晩年になると文桓帝はしばしば危篤状態となり、それと共に諸子が後継者争いを起こして内紛を続出させた。国と太子姚泓の身を案じて、51歳で崩御した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「姚興」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yao Xing 」があります。 スポンサード リンク
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