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文武王(ぶんぶおう、生年不詳 - 681年)は、新羅の第30代の王(在位:661年 – 681年)であり、姓は金、諱は法敏。先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃は波珍飡(4等官)の善品の娘の慈儀王后〔『三国遺事』王暦では王母を訓帝夫人(諡されて文明王后)、王妃を善品海干(波珍飡の別称、4等官)の娘の慈義王后(または慈訥王后)とする。〕。661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。在位中に高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。 == 即位以前 == 武烈王として即位する前の父・金春秋が唐と新羅との緊密な関係(唐・新羅の同盟)を築いて帰国した後、649年の百済との局地戦の戦勝報告と、真徳女王が唐の威光を称えて作った五言太平頌を献上することとを任務として、金法敏は650年6月に唐を訪れた。高宗はこのことを大変に喜び、金法敏は太府卿の職を授かって帰国した。帰国して後に父が武烈王として即位すると、654年に波珍飡(4等官)の位で兵部令(長官)となり、次いで太子に立てられた。 660年7月の対百済戦役では、金庾信らとともに5万の兵を率いて左武衛大将軍蘇定方の指揮する唐軍に合流して戦って大功をあげた。その後も百済の残存勢力は各地で反乱したが、10月には金法敏らの諸軍が尓礼城(忠清南道扶余郡の青馬山城〔または忠清南道論山市連山面、同魯城面などの比定説がある。〕)を陥落させて、残りの20余城の百済軍もすべて降伏し、百済旧地はいったん平定された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文武王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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