|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 文 : [ぶん] 【名詞】 1. sentence ・ 玉 : [たま, だま, ぎょく] 1. (n,n-suf) ball 2. sphere 3. coin
文 玉珠(ムン・オクジュ、)または(ムン・オクチュ)は韓国人女性。アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件(通称韓国遺族会裁判)における原告の一人。 自身が太平洋戦争終結以前に慰安婦であったと述べている。 ==略歴== 以下に、韓国挺身隊問題対策協議会の調査による略歴を示す。 *1924年:大邸生まれ。 *1933年(9歳):独立運動をしていた父が死亡、家計が大変なので寺子屋や夜間学校で勉強。 *1937年(13歳):面倒を見るという日本に住んでいる親戚の家に行くがこき使われたので6ヶ月で帰り、スリッパ工場で時折働く。 *1940年(満16歳):友人の家に行った帰りに軍服を着た日本人に腕をつかまれ憲兵隊らしきところへ連れてゆかれる。翌日民間人の男に引き渡され汽車に2日乗って中国東北部の逃安城でおり、トラックで慰安所に運ばれた。文原ナミコと名前をつける。主計将校に料理を作るなど気に入られようと努力する。 *1941年9月(1年後):主計将校が外で所帯を持とうと言ったのを利用して証明書を貰い朝鮮へ帰る。 *1942年7月(18歳):友人の金がもうかる食堂があるという誘いに乗って「ダメにされた体だから」と思い金を稼ごうと釜山へ行く。朝鮮人経営者に連れられ船でビルマへ。トラックでマンダレーの慰安所へ。金を稼ぐためにきたから仕方がないが本当にたくさん軍人がきた。物品管理をしている男と親しくなる。文原ヨシコを名乗る。 *(7、8箇月後)アキヤブへ移動。船でプロムに移動、経営者がいなくなり軍人が直接管理。 *(4、5箇月後)更にラングーンへ、荒れた軍人が多く殺されそうになる。「一度は酒に酔った軍人が出てきて刀を抜いて殺そうとしました。『あんた達を慰安しようと来た私たちに対してそんな事できるの?』となだめましたが、彼は殺気をみなぎらせて私を殺そうとしました。そこで私は死ぬか生きるかの瀬戸際で彼に飛びかかりました。その瞬間びっくりした彼が刀を手放すと私はその刀を取り上げてとっさに胸を刺してしまいました。その軍人は血を流しながら車に載せられてゆき私は憲兵隊に呼び出されて軍事裁判を受けました。1週間後に釈放されましたがまた軍人達の相手をさせられました」 *(3、4箇月後)タイへ移動。1箇月後、アユタヤへ。3、4箇月の間、負傷兵の看護をして終戦を迎える。 *終戦後、タイの収容所へ。親しくなった男は日本へ誘ったが、朝鮮へ帰国。 *1996年10月:72歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文玉珠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|