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文章院(もんじょういん)は、大学寮紀伝道の直曹(講堂及び寄宿舎)。大学寮構内北端の都堂院と同一ともされる。後世においては、代々文章博士を務めた菅原氏・大江氏の大学別曹としての要素も含有した。北堂呼ばれる講堂とその東西に設置された紀伝曹司(東曹・西曹)から構成された。 == 歴史 == 設立の由来については、遣唐使として唐に渡った菅原清公が、唐の昭文館・崇文館を参考にして承和元年(834年)頃に設立したとされているが、文章博士が設置された神亀5年(728年)以後に文章生を収容する宿舎があったとする見方もある。いずれにしても菅原清公が文章博士・大学頭であった時代は文章博士の地位が従来筆頭であった明経博士の上位に立った時期にあたり、その整備が大いに進んだとされている。以後も菅原氏宗家から文章博士を相次いで輩出したため、同院の運営に対する影響が大きかった。昌泰の変後に菅原氏が一時低迷すると、替わって大江氏が文章博士を占めるようになり、文章院への影響力を強めた。平安時代中期以後、西曹は菅原氏、東曹は大江氏の管理下におかれ、そのままそれぞれの氏族の寄宿舎(他氏の大学別曹に相当する)としても機能した。勿論、文章院は公的機関である大学寮直曹であったから、大学別曹を持たない氏族出身者の寄宿舎としても当然用いられたが、管理者である菅原氏・大江氏の博士と強い関係で結ばれて一種の学閥を形成することとなった。院政期に紀伝道の家学化が進むと、それ以外の氏族は排除されるようになり大学寮外に教育の場が移った。治承元年(1177年)の大火によって焼失すると、事実上廃絶した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文章院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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