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文英清韓(ぶんえいせいかん、永禄11年(1568年)- 元和7年3月25日(1621年5月16日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。伊勢国の出身で、俗名は中尾重忠。諱は清韓〔石井清純「文英清韓」『朝日日本歴史人物事典』。〕〔「文英清韓」『世界大百科事典 』平凡社。〕。「文英」は字。号は不放子。 出家した後、文禄の役では祐筆として加藤清正に従い朝鮮半島に渡った〔。慶長5年(1600年)に京都東福寺の長老となり、その後南禅寺の長老となった〔。 漢詩文に秀で、慶長19年(1614年)4月、片桐且元に命じられ京都方広寺大仏殿の再建工事において梵鐘の銘文を起草したが〔清韓の自筆草稿が2点現存する。「方広寺大仏鐘銘」(MOA美術館蔵、重要文化財)と「方広寺大仏鐘銘草稿」(京都市歴史資料館蔵、京都市指定文化財(書跡))がそれで、前者より後者のほうが後に制作されているが、実際の銘文と比べるとどちらも後半がかなり相違する(『京都市文化財ブックス第28集 平安京』 京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課編集発行、2014年3月31日、pp.112-113)。〕、この銘文に不吉な語句があることを徳川家康は問題視し、大仏開眼供養の中止を求めた(方広寺鐘銘事件)。同年8月には且元に同行して駿府へ弁明に向かい、清韓自身は家康の諱を祝意として「かくし題」とした意識的な撰文である(「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」)と弁明しているが、、五山の僧の答申はいずれも当時の諱の扱いに対する常識や礼儀として、問題視し〔『摂戦実録』に記録されている。詳細は『関ヶ原合戦と大坂の陣』(笠谷和比古、吉川弘文館)を参照。〕、諱を避けなかったことについて五山僧から非難されている。この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が以心崇伝らと画策して問題化させたとの通説もあるが、近年の研究では問題となって然るべきものと考えられている〔宮本義己「徳川家康公の再評価」(『大日光』64号、1992年)〕〔笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』p204-215〕〔渡邊大門『大坂落城』角川選書、p68-82〕。事態は鐘銘問題から徳川と豊臣家との対立に発展し、大坂の陣の遠因となった。文英も連座し、南禅寺から追放され、住坊の天得院は一時廃絶の憂き目にあっている。 文英は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁され、蟄居中に林羅山と知り合い、のち羅山の取りなしなどにより許され、1621年に没している〔渡邊大門『大坂落城』p178、p187〕〔 ==脚注== 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文英清韓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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