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斉藤 和夫(さいとう かずお、1951年7月27日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身のサッカー選手、コーチ・監督。現役時代のポジションはディフェンダー。 == 経歴・人物 == 法政大学から日本サッカーリーグ(JSL)の三菱重工(現-浦和レッドダイヤモンズ)に入団、JSLでは通算248試合出場3得点を記録、ベストイレブンにも3度輝いた。日本代表では国際Aマッチ32試合出場の記録を残した〔。 1989年、三菱がJSL2部に降格すると監督に就任、圧倒的な強さを見せて優勝、1年で1部復帰を果たした。1992年に監督を退任すると三菱から名前の変わった浦和レッドダイヤモンズのコーチ、ジェフユナイテッド市原のコーチを歴任した。 1997年にはジャパンフットボールリーグ所属の川崎フロンターレの監督に就任した。川崎ではJリーグ昇格を期待されたが、後半戦の山場である第20節から3連敗し、昇格圏外の3位へ後退すると更迭された。結局、同年の川崎は3位に終わり、Jリーグ昇格に失敗した。 その後は浦和のフロントとなり2000年、J2に降格した浦和の監督に就任。ぶっちぎりでのJ1復帰を期待されたが、開幕ダッシュにこそ成功したもののその後は思うように勝てず、特に昇格のライバルのコンサドーレ札幌には4度の対戦で1分3敗と1度も勝てなかった。それでも辛うじて昇格圏内の2位は確保していたが、10月1日、アウェーでのアルビレックス新潟戦に2-4で敗れ、3位の大分トリニータに迫られると横山謙三が総監督に就任することとなり監督の肩書はそのままに指揮権を返上した(実質的にはコーチ降格)。結果として、浦和は1年でのJ1復帰に成功したが、斉藤への評価は低いものとなった。 2000年シーズン終了後、斉藤は浦和を退団。その後、市原(現・千葉)に再び招かれ、同クラブのアマチュアチームの監督に就任し、千葉県リーグ1部優勝と関東リーグ昇格に導いた。2005年には三菱養和クラブの監督となり、ユース(高校生)年代の選手育成に努めている。斉藤の指導下で三菱養和クラブは2009年の高円宮杯第20回全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会で3位に入り(準決勝進出)、Jリーグクラブの下部組織ではない、いわゆる「街クラブ」としては同大会での最高成績へと導いた。 2010年からはJ2に降格した千葉のヘッドコーチに就任した〔斉藤和夫ヘッドコーチの就任について (2009年12月9日ジェフユナイテッド市原・千葉オフィシャルHPより)〕が、1年でのJ1昇格に失敗し、2011年からは同クラブのスカウトを務めている。2014年6月、鈴木淳監督の解任に伴い関塚隆が新監督に就任するまで監督代行を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斉藤和夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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