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斉藤安代 : ミニ英和和英辞書
斉藤安代[さいとう やすのり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

斉藤安代 : ウィキペディア日本語版
斉藤安代[さいとう やすのり]

斉藤 安代(さいとう やすのり、1927年9月14日 - 2005年4月6日)は、日本の映画プロデューサー民間放送局経営者である〔新聞, p.639.〕〔斉藤安代氏死去 元静岡県民放送副社長 共同通信社、2005年4月6日付、2014年12月1日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2014年12月1日閲覧。〕〔''Yasuyo Saito''・''Yasuyo Saitô'' (表記誤記), インターネット・ムービー・データベース 、2014年12月1日閲覧。〕〔''斉藤安代''・''斎藤安代''東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年12月1日閲覧。〕〔''斎藤安代''文化庁、2014年12月1日閲覧。〕〔''斎藤安代''KINENOTE, 2014年12月1日閲覧。〕〔''斎藤安代''allcinema, 2014年12月1日閲覧。〕〔''斎藤安代''日本映画データベース、2014年12月1日閲覧。〕。東映東京撮影所の企画部から日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)へ転身して以降、同社常務取締役、同社常勤監査役静岡朝日テレビ代表取締役副社長等を歴任した〔〔。
東映時代、斎藤 安代とクレジットされた作品がある〔。インターネット・ムービー・データベースの表記 ''Yasuyo Saitô'' も、Movie Walker での読み「サイトウヤスオ」〔斎藤安代 Movie Walker, 2014年12月1日閲覧。〕も、いずれも誤りである〔〔。
== 人物・来歴 ==
1927年(昭和2年)9月14日、静岡県に生まれる〔〔。
第二次世界大戦後、旧制高等学校から東京大学文学部に入学、1949年(昭和24年)3月に卒業した〔週刊朝日, p.53.〕。在学中は、学園民主化をめざし自治会結成に尽力した〔。
1952年(昭和27年)4月、設立1年後の東映に入社する〔。記録に残るもっとも古い作品は、1954年(昭和29年)7月13日公開の『とんち教室』(監督渡辺邦男)で、同作では松崎啓次(1905年 - 1974年)を筆頭にともに企画にクレジットされている〔〔〔〔〔〔。当時、満26歳であった〔。1955年(昭和30年)5月17日公開の『サラリーマン 目白三平』(監督千葉泰樹、主演笠智衆)およびその続篇として同年9月27日に公開された『続サラリーマン 目白三平』では、藤本真澄(1910年 - 1979年)、金子正且(1918年 - 2007年)という外部の先輩プロデューサーに伍す形で企画にクレジットされた〔〔〔〔〔映画監督 千葉泰樹 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年12月1日閲覧。〕。1956年(昭和31年)2月18日に公開されたシリーズ第1作『警視庁物語 逃亡五分前』(監督小沢茂弘)では、坪井與に次いで企画にクレジットされたが、同年12月11日公開のシリーズ第3作『警視庁物語 追跡七十三時間』(監督関川秀雄)で一本立ちした〔〔〔〔。
1961年(昭和31年)6月23日に公開された『花と嵐とギャング』を、新東宝から移籍した石井輝男の「東映入社第一作」として、部下の吉田達(1935年 - )とともに企画した〔〔〔〔。1963年(昭和38年)6月14日に公開された『警視庁物語 全国縦断捜査』(監督飯塚増一)以降4作は、部下の登石雋一(1932年 - 2012年)とともに企画にクレジットされた〔〔〔〔。吉田達はのちに東映ビデオ取締役となり〔年鑑, p.264-265.〕、登石雋一はのちに東映化学工業(現在の東映ラボ・テック)の代表取締役社長となる人物である〔。同年、当時東映が筆頭株主であった日本教育テレビ(1959年2月1日開局)に出向した〔。同年に同社に入社した塙淳一山形勲の長男)〔、2014年12月1日閲覧。〕の回想によれば、邦画部長〔年鑑, p.160.〕であった斉藤は、1966年(昭和41年)のある日、『ある勇気の記録』の原作を手渡し、「君は独身だ、 殺されるかもしれないが、 やってみるか」 と打診したという〔私の新人時代 塙淳一日本映画テレビプロデューサー協会、2014年12月1日閲覧。〕。同作は、東映テレビプロダクション中国放送との提携で製作された〔ある勇気の記録 テレビドラマデータベース、2014年12月1日閲覧。〕。
1970年代に入り、製作局長、途中、局長待遇の社長室長の時期を経て、編成局長を歴任する〔〔民放連, p.168.〕。1980年代には編成局担当常務取締役、次いで常勤監査役に就任する〔〔。1986年(昭和61年)には、『人間の約束』(監督吉田喜重)にテレビ朝日として製作出資し、製作に名を連ねる〔〔〔〔〔〔。同作は同年9月13日に公開された〔〔〔〔〔〔。その後、1991年(平成3年)までの時期に静岡県民放送(1978年7月1日開局〔会社案内 静岡朝日テレビ、2014年12月1日閲覧。〕〔、2014年12月1日閲覧。〕)に転出し、代表取締役副社長に就任、静岡県広告協会の常任理事(1993年退任)を務めた〔〔常任理事 、静岡県広告協会、2014年12月1日閲覧。〕。1993年(平成5年)10月1日、静岡県民放送は静岡朝日テレビと商号を変更している〔。
2005年(平成17年)4月6日、東京都町田市の病院で心不全のため死去した〔。満77歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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