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斎藤 拙堂(さいとう せつどう、寛政9年(1797年) - 慶応元年7月18日(1865年9月7日))は、幕末の朱子学者。諱は正謙。字は有終。通称は徳蔵。 == 生涯 == 津藩士の子として江戸藩邸内にて生まれ、昌平黌で古賀精里の教えを受ける。古文に通じた人物として24歳で藩校有造館の創設に加わり、藩主藤堂高猷の侍講となった。 天保12年(1841年)、郡奉行に任ぜられ、地方役人や庄屋の不正を糺した。 弘化元年(1844年)、有造館の督学(校長)となると、学則を改め人材を挙げ、広く書籍を購入し文庫を増設し、『資治通鑑』294巻を刊行した。アヘン戦争後には海外事情についても研究を重ね、時勢の変遷にも敏感に対処した。拙堂自身は一貫した朱子学者であったが、西洋の文物でも優れているものはそれを認めて、和漢洋の折衷によってより良いものにしていくこと(和洋折衷)を唱えた。そのため、有能な藩士を江戸に送り、洋学や西洋兵術を学ばせ、種痘術の渡来に際しては有造館に種痘館を開き、率先して藩内に施行し、洋式軍制を取り入れるなどの藩政改革にも関わった。 安政2年(1855年)、幕府の命で江戸に赴き、将軍徳川家定に拝謁した。幕府は拙堂を儒官に抜擢しようとしたが、主君の元を去り難しと拙堂はこれを辞退している。 安政6年(1859年)、致仕した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斎藤拙堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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