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斎藤 義龍(さいとう よしたつ)は、戦国時代の武将。美濃国の戦国大名。道三流斎藤氏の第2代当主(美濃一色氏初代とする説もある)。室町幕府相伴衆。 == 生涯 == === 斎藤氏時代 === 大永7年(1527年)7月8日、初代当主・斎藤利政(道三)の嫡男として生まれる。母は側室の深芳野。初名は利尚、高政〔『高木貞一氏所蔵文書』 『岐阜市史』参考〕といった。 天文23年(1554年)道三が隠居したため、美濃守護代斎藤氏の家督を継いで稲葉山城主となる。この隠居は父道三の自発的なものではなく、家臣の信頼を得られず、領国経営が円滑に進まなかったための交代劇という見方もある〔『戦国時代論』(勝俣鎮夫)〕〔なお、天文17年(1548年)相続説や、道三の隠居(義龍に稲葉山城を譲り、自身は鷺山城に移動)は『美濃国諸旧記』で述べられているが、『信長公記』や『江美濃記』などの信頼性の高い史料に記述が無く、道三は隠居していないという説もある。〕。 その後、道三は義龍を「耄者(おいぼれ)」と断じ、「利口者」の孫四郎や喜平次らを溺愛するようになる〔『信長公記』〕。さらに義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとし、末弟の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名門一色氏を名乗らせた〔ことから、両者の関係は最悪の事態を迎えた。 弘治元年(1555年)、義龍は叔父とされる長井道利と共謀して、弟の孫四郎・喜平次らをおびき出して日根野弘就に殺害させたため、仰天した道三は大桑城に落ち延びた〔。弘治2年(1556年)、義龍は長良川にて道三と対峙、道三を支持する勢力は少なく、旧土岐氏の勢力に支えられて道三を討ち果たした(長良川の戦い)。尾張国から織田信長が道三を救援に来ていたが間に合わなかった。義龍と多少の戦闘をしつつ信長は撤退した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斎藤義龍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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