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斎藤 七五郎(さいとう しちごろう、1870年1月13日(明治2年12月12日) - 1926年7月23日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 == 経歴 == 宮城県仙台市出身。斎藤七兵衛・シナの息子として生れる。1893年(明治26年)12月、海軍兵学校(20期)を卒業し、少尉候補生として「扶桑」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年(明治28年)3月に海軍少尉任官。 1896年(明治29年)3月、「富士」回航委員としてイギリスに出張。1898年(明治31年)10月、「豊橋」分隊長に就任し、「金剛」砲術長、同分隊長(豪州回航)、「鳥海」航海長、「千代田」航海長、呉鎮守府副官などを歴任。 1903年(明治36年)12月、第3艦隊参謀となり、日露戦争に第1艦隊参謀として出征。第1回旅順港閉塞作戦に「仁川丸」、第2回閉塞作戦に「弥彦丸」の各指揮官として参加した〔『日本の海軍』(上)p.280-281〕。1904年(明治37年)3月、海兵砲術教官兼監事となり、一時、大本営付を兼務。第3回閉塞作戦のため大阪で閉塞船の石材搭載などの準備を行っている。同年7月、海軍少佐に昇進。日露戦争のため退学した海軍大学校に復校し、1906年(明治39年)7月、同校(将校科甲種4期)を首席で卒業。 1906年7月、第1艦隊参謀に就任し、練習艦隊参謀、「出雲」航海長、軍令部参謀、兼参謀本部部員、兼陸軍大学校兵学教官などを歴任し、1908年(明治41年)9月、海軍中佐に進級。1910年(明治43年)2月からアメリカ駐在、翌年にはイギリス駐在となる。1911年(明治44年)12月、「敷島」副長となり、海大教官兼陸大兵学教官に転じ、1913年(大正2年)12月、海軍大佐に昇進。 1914年(大正3年)12月、海軍省人事局局員兼海大教官に就任し、人事局第1課長兼第2課長、「八雲」艦長、第3艦隊参謀長を歴任し、1918年(大正7年)12月、海軍少将に進級し呉鎮守府参謀長に着任。 1920年(大正9年)12月、軍令部参謀兼海大教官となり、1922年(大正11年)12月、海軍中将に進み第5戦隊司令官に就任。1923年(大正12年)6月、練習艦隊司令官に転じ、1924年(大正13年)4月、軍令部次長に就任したが、1926年(大正15年)7月、現職で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斎藤七五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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