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斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - 1966年11月6日〔斎藤五百枝 、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2009年12月24日閲覧。〕)は、日本の映画美術の美術デザイナー、背景画家、出版における挿絵画家である〔。日本映画の黎明期に、吉沢商店、日活向島撮影所、国際活映角筈撮影所で、クレジットされることもなくセットの背景を描いた人物であり、後に『少年倶楽部』の表紙画で人気を博した〔。 == 人物・来歴 == 1881年(明治14年)12月21日、千葉県に生まれる〔。 旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学、同校の洋画科で岡田三郎助に師事した〔。 1908年(明治41年)、東京・京橋区(現在の中央区)に本社をもつ吉沢商店が、東京府荏原郡目黒村大字下目黒の行人坂(現在の目黒区下目黒)に、日本初の撮影所を開設、これに入社し、セットの窓外や、ロケーション撮影が行わなかった場合の代替の海岸の風景等、背景画を描いた〔『日本映画史発掘』、田中純一郎、冬樹社、1980年、p.128-132.〕。1909年(明治42年)、同撮影所に考案部(現在の企画部・かつての文芸部に当たる)が設置され、同部長に小説家の佐藤紅緑が就任する〔『日本映画発達史 1 活動写真時代』、田中純一郎、中央公論社、1968年、p.140-142。〕。1912年(大正元年)10月1日、同社が他の3社と合併して日活を設立後も、同撮影所で背景を描いた。1913年(大正2年)10月、日活が向島撮影所を開設、目黒の撮影所は閉鎖され、考案部の小口忠、桝本清、技手(現在の撮影技師・編集技師・現像技師)の千葉吉蔵らとともに、同撮影所に異動した〔『日本映画発達史 1 活動写真時代』、p.201-204。〕。当時は、監督や撮影技師すらクレジットされないのが通常で、斎藤がいずれの作品の美術を担当したかは定かではない〔『日本映画発達史 1 活動写真時代』、p.274-279.〕。 1914年(大正3年)11月、大日本雄辯會講談社(現在の講談社)が、『少年倶楽部』を創刊、創刊号からの表紙絵を描く〔。同誌に掲載された小説の挿絵としては、大倉桃郎の『暁の歌』、佐藤紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』、山手樹一郎の『錦の旗風』等が知られる。 1921年(大正10年)には、国際活映角筈撮影所で美術デザイナーとなり、小島孤舟の新派戯曲『湖畔の家』を、吉沢商店以来の同僚である桝本清が脚色、畑中蓼坡が監督した『寒椿』に参加、「舞台意匠」としてクレジットされた〔寒椿 、日本映画データベース、2009年12月24日閲覧。〕。 その後も、吉沢商店以来の縁である佐藤紅緑、あるいは大佛次郎らの小説に挿絵を描いた〔。1941年(昭和16年)、「第1回野間挿絵奨励賞」を受賞した〔。 1966年(昭和41年)11月6日、死去した〔。満84歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斎藤五百枝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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