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斎藤 十一(齋藤 十一、さいとう じゅういち、1914年(大正3年)2月11日 - 2000年(平成12年)12月28日)は、昭和期の編集者・出版人。 カリスマ性を持った人物で、新潮社の「天皇」とも「怪物」とも呼ばれた。新潮社会長の佐藤亮一の参謀として権勢を振るい恐れられた。1960年(昭和35年)から『週刊新潮』に名物コラム「東京情報」を長期連載していた自称オランダ人記者ヤン・デンマンは、斎藤の変名と考えられている〔デンマンの名は、占領軍のパイロットだった米国人将校の名前が由来で、斎藤の趣味だったクラシックレコードを海外から安く仕入れてくれる友人だった。『編集者 齋藤十一』p.289〕〔亀井淳『「週刊新潮」の内幕 元編集部次長の証言』(第三文明社、1983年)p.12〕〔ただしヤン・デンマン名で執筆していたのは斎藤一人でなく、のちの『FOCUS』編集長の田島一昌も担当していたと言われる(岡留安則「『フォーカス』の読み方」『『フォーカス』の内幕』岡留安則編著、KKベストブック、1984年、p.156)。また、平岡正明によるとヤン・デンマンは2人組で「刑事部屋のヤニくささと岡っ引き的な品性のいやなやつらだった」だったという(平岡正明『人之初』p.175、彩流社、2012年)。なお週刊新潮では、2013年1月からヤン・デンマン名義のコラムが再開されている。〕。 == 生い立ち == 東京ガスの社員の父が北海道ガスへ出向中、北海道忍路郡(おしょろぐん)塩谷村(しおやむら=現在の小樽市)に生まれ、父の転勤で3歳から東京市大森区に育つ。1927年(昭和2年)、旧制麻布中学校入学。在学中の成績は中位で、軽度の吃音に悩む、おとなしく目立たない生徒だった。1931年(昭和6年)、麻布中学校卒業。海軍兵学校を受験したが体格検査ではねられる。のちに徴兵検査でも肺浸潤が発見されたため、兵役を免れている。〔佐野眞一『人を覗にいく』〕。次いで旧制第一高等学校と旧制松本高等学校の受験に失敗したため、早稲田第一高等学院理科から早稲田大学理工学部理工科に進むも、一高受験失敗の衝撃から休学して家出し、南総の寺で1年間修行。のち、ひとのみち教団(現在のPL教団)信者の父によって家に連れ戻され、十一自身も同教団に入信。 同じ信仰を持ち、新潮社の創業者、佐藤義亮の四男佐藤哲夫と親しくなったのが縁となり、義亮の孫、佐藤亮一(のち新潮社会長)の家庭教師となる。 1935年(昭和10年)9月、早大理工学部を中退して新潮社に入社。1936年(昭和11年)、ひとのみち教団の女性信者と結婚。翌1937年(昭和12年)9月、ひとのみち教団教祖の御木徳一が少女への強姦猥褻事件で逮捕され、教団は解散に追い込まれた〔ひとのみち教団は戦後PL教団として再興。またこの事件を冤罪と見る説もある〕。この時の裏切られた思いが、斎藤の冷笑的な人間観を形成したとする説もある〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斎藤十一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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