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齋藤 和(さいとう のどか、1947年11月14日 - 1975年5月19日)は日本の新左翼活動家。元東アジア反日武装戦線 “大地の牙” 部隊における、事実上のリーダーであった。1974年10月14日の三井物産爆破事件をはじめ、同部隊による連続企業爆破事件において、主導的役割を担ったとされる。北海道室蘭市出身。 == 人物 == 北海道室蘭東高等学校に入学し、生徒会長を務めた。高校時代にアナーキズム理論に出会い、松田政男、山口健二、川仁宏、笹本雅敬らの東京行動戦線に賛同、シンパとなった。夏休みには上京し東京行動戦線の母体である現代思潮社でアルバイトするほどの熱心さだった〔『でもわたしには戦が待っている』p498 高3の夏休み説と都立大進学後説の2つ有り〕。 東京都立大学人文学部に進学し上京。東京行動戦線から派生した笹本、朝倉喬司らのベトナム反戦直接行動委員会にも参加、1966年10月19日に東京都田無市(現・西東京市)の日特金属工業(現・住友重機械工業)を襲ったメンバーの一人だったが、逮捕はされなかった〔島崎忠さんに聞く 不思議な魅力を持っていた和君の思い出 〕〔非暴力と非合法――5・15嘉手納基地行動と関連して――その2 日特金属襲撃事件など) 『市民の意見30の会・東京ニュース』第50号 1998. 10. 1.〕。ベトナム反戦直接行動委員会の後身で主に被逮捕メンバーの裁判支援を担う「黒層社」にも参加〔『でもわたしには戦が待っている』p53〕。 大学では、入学当初に多少学生運動に関わった以外は一切の活動に参加しなかったが、一学年下の親友で日本朝鮮研究所の研究生でもあった竹田賢一が旗揚げした「朝鮮革命研究会」に相談役として加わっていた〔『でもわたしには戦が待っている』 風塵社、2004年、p63~70〕。 1971年、斎藤は大学を中退し、青砥に貸本屋を開く〔『でもわたしには戦が待っている』p499〕。一方、学生時代の活動で築いた人脈の中で、北川フラムらとともに、平岡正明らのテック争議に参加〔『でもわたしには戦が待っている』p80 平岡の人脈もあり、山下洋輔や大島渚、足立正生、C.W.ニコルら多くの文化人も支援に訪れ、話題となっていた〕。そこで渋谷近くに住む大学生だった浴田由紀子と知り合う〔『でもわたしには戦が待っている』p113~114〕。平岡とは他方で彼の著書『中国人は日本で何をされたか』の室蘭の項の調査を担当した〔『でもわたしには戦が待っている』p82〕。 山口、太田竜、佐々木祥氏、太田昌国らのレボルト社にも出入りしていた斎藤は、日雇い労働をしながら、度々韓国へ渡航。佐々木らが築いていた同国内の反政府・反日勢力ネットワークと交流、共闘を模索した〔『でもわたしには戦が待っている』p175〕。その渦中において、祥氏の弟佐々木規夫と親しくなり、北海道でのアイヌ居住区巡りを共に行う〔『でもわたしには戦が待っている』p175〕うちにオルグを受け、東アジア反日武装戦線に入隊、大地の牙部隊を結成した。そして1974年、浴田を同部隊に引き入れ、のちに内縁の妻とした〔『でもわたしには戦が待っている』p120~125、p150〕。また当時、日雇い労働をする傍ら、太田竜、平岡、竹中労らの窮民革命論に共鳴し、寄せ場で労働者だけではなく生活費を稼ぎに来る南ベトナムからの難民らをも組織しようと動いていたが、失敗に終わっている。この頃、山谷で活動していた、のちに東アジア反日武装戦線 “さそり” 部隊リーダーとなる黒川芳正とも面識があったという〔。 上京後に築かれた人間関係においては「和(かず)」と名乗っており、パスポートのローマ字表記もKazuで通していた〔『でもわたしには戦が待っている』p119〕。同居後は浴田姓を使用し、偽名の「浴田敬(たかし)」の名を使用するようになる。日雇い労働を経て、調布駅前の喫茶店「しの」の店員として働いていた〔『でもわたしには戦が待っている』p498~p499〕。ここでは国領に住む「丸山」と偽称していた〔朝日新聞1975年5月20日朝刊〕。 1975年5月19日朝8時ごろ、居住していた亀戸のツタバ・マンションで就寝中、踏み込んできた警察官に内縁の妻浴田由紀子と共に逮捕される。齋藤は逮捕後、警視庁に連行される間に、自決用に隠し持っていた青酸カリ入りカプセルを服毒して自殺を図り、同日死亡〔『でもわたしには戦が待っている』P140〜P144 “カプセルのこと”〕(自殺用に持っていた青酸カリは大道寺あや子が勤務先から盗んだもの)。この自殺により、齋藤のみが握っていた情報・事実(関西などに協力者が数名いたこと)は闇に葬られることとなった〔但し、浴田などのメンバーは「斎藤のみが知っていた」とされる情報を知っていても、自供していない可能性が高い。『でもわたしには戦が待っている』p128~134では浴田自身が協力者数名の存在を述べている。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「齋藤和」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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