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斎藤彦四郎 : ミニ英和和英辞書
斎藤彦四郎[さいとう ひこしろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とき]
 【名詞】 1. meals exchanged by parishioners and priests 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [よん]
  1. (num) four 

斎藤彦四郎 : ウィキペディア日本語版
斎藤彦四郎[さいとう ひこしろう]
斎藤 彦四郎(さいとう ひこしろう、生没年不詳)は、戦国時代武将美濃守護代斎藤氏持是院家2代目の斎藤妙純の3男。利親又四郎の弟、姉妹に朝倉貞景室、京極高清室らがいる。
次兄の又四郎が明応8年(1499年)に没すると、持是院家5代目当主となる。永正3年(1506年)に11代将軍足利義澄から出された御内書の宛先も「斎藤彦四郎とのへ」であり、美濃守護代になっていることがわかる。
永正9年(1512年)、守護土岐政房と対立し一旦尾張へ逃れ、織田氏の援助を得て再び美濃に戻り、墨俣城に籠城した。しかし、土岐政房と甥の大黒丸(又四郎の遺児)の軍勢に敗れ、8月23、24日頃に再度尾張へ亡命した。
永正14年(1517年)、美濃では政房の後継をめぐって対立が起こり、12月27日には遂に合戦となった。彦四郎の甥の斎藤利良(長兄利親の遺児)は嫡男頼武を、政房と小守護代長井長弘は次男頼芸を推して戦ったが、この時は頼武派が勝利した。この合戦後、彦四郎は頼芸派と密かに連絡を取り、永正15年(1518年)8月10日、再び合戦が起きた。その結果、勝利した彦四郎は美濃に再び入国し、頼武は斎藤利良と共に越前朝倉氏の元へ亡命した。
永正16年(1519年)6月16日に政房が没し、美濃守護職が空位となると、朝倉孝景(宗淳)は弟である朝倉景高に美濃出陣を命じ、景高は頼武・利良と共に3000の兵で美濃に侵攻、連戦連勝して頼武の守護就任を実現させた。この頃、彦四郎は失脚、または戦死したと思われる。
== 関連項目 ==

* 斎藤氏
* 土岐氏




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「斎藤彦四郎」の詳細全文を読む




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