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斎藤 秀三郎(さいとう ひでさぶろう、1866年2月16日(慶応2年1月2日) - 1929年(昭和4年)11月9日は、明治・大正期を代表する英語学者・教育者。宮城県仙台市出身。 ==略歴== *1866年、仙台藩士斎藤永頼の長男として生まれる。 *1871年(5歳) 辛未館(仙台藩の英学校)入学。 *1874年(8歳) 宮城英語学校入学。米国人教師C.L.グールドに英語を学ぶ。 *1879年(13歳) 宮城英語学校卒業、上京して東京大学予備門入学 *1880年(14歳) 工部大学校(現在の東京大学工学部)入学。純粋化学、造船を専攻。後に夏目漱石の師となるスコットランド人教師ディクソン (James Main Dixon) に英語を学ぶ。後々までイディオムの研究を続けたのは彼の影響だったと後年述べている。また、図書館の英書は全て読み、大英百科事典は2度読んだ、という逸話が残っている。 *1883年(17歳) 工部大学校退学。 *1884年(18歳) 『スウヰントン式英語学新式直訳』(十字屋・日進堂)を翻訳出版。その後、仙台に戻り、英語塾を開設(一番弟子は、伝法久太郎である。また、学生の中に土井晩翠がいる)。1885年に来日したアメリカ人宣教師W・E・ホーイの通訳を務める。その後、1887年9月第二高等学校助教授(1888年9月教授)、1889年11月岐阜中学校(この時代、、濃尾地震に遭遇。この体験は、その後、地震嫌いとして斎藤の生活に影響を及ぼすことになる)、1892年4月長崎鎮西学院、9月名古屋第一中学校を経て、1893年7月第一高等学校教授。1888年5月とら子と結婚。 *1896年10月神田錦町に正則英語学校(現在の正則学園高等学校)を創立して校長。以後、死亡するまで、(一時期、第一高等学校に出講したが)、ここを本拠として教育・研究に生涯を尽くした。 *1897年4月第一高等学校を辞した。 *1904年東京帝国大学文科大学講師となった。 *1915年11月勲五等に叙せられ、瑞宝章を授けられた。 *1929年11月,直腸癌で死去、勲四等に陞叙された。墓所は多摩墓地。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斎藤秀三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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