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斎藤 秋圃(さいとう しゅうほ、明和5年(1768年、翌年出生説あり) - 安政6年10月16日(1859年11月10日))は、江戸時代後期から末期にかけて活躍した四条派の絵師。前名は葵双鳩、福岡藩の支藩・秋月藩の御用絵師。桑原鳳井、石丸春牛、村田東圃と共に筑前四代画家と呼ばれた。 == 略伝 == 京都出身。姓ははじめ池上、葵。名は相行。通称は市太郎、惣右衛門。別号に葦行、双鳩など。斉藤家の言い伝えでは、秋圃は醍醐家の庶子で、南禅寺の文禮和尚に預けられ、のち池上相常の養子となったという。絵は円山応挙や江稼圃らに学んだという。享和2年(1802年)35歳ごろは、亦介(又輔)と称し、大坂新町で幇間を務めており、呉雀楼で滝沢馬琴と会っている。翌年『葵氏(きし)艶譜』を出版(3年後に『郭中艶譜』と改題され再出版)。葵姓は、母が葵殿と称したのが由来だという。 文化2年(1805年)秋月藩主黒田長舒に召さ出され、3人扶持12石で御組外絵家業を仰せつかる。文化10年(1812年)葵から斎藤に改姓。文政11年(1828年)隠居。天保9年(1838年)長男が江戸で出奔、秋月藩でお家断絶する。安政6年(1859年)没、享年92。墓は光明寺。家業は三男の斎藤梅圃が継いだが、梅圃の作品は殆ど残っていない。 福岡で活躍した仙厓と交流が深く、一説に仙厓の師とも言われる。謹直な画風から軽妙洒脱な絵まで多様な作品をこなしたが、動物画、特に鹿の絵を得意とした。ただし、晩年は乱作気味で質の良くない作品も混じる。福岡市博物館の2階展望ロビーの壁には、秋圃の「博多太宰府図屏風」が刻まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斎藤秋圃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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