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足利 家氏(あしかが いえうじ、生没年不明)は、鎌倉時代中期の御家人。足利泰氏の長男で、足利尾張家の初代。子に義利、貞数、宗家。子孫は斯波氏、大崎氏、最上氏、石橋氏。弟に兼氏(義顕、渋川氏祖)、頼氏(足利5代当主)、公深(一色氏祖)、頼茂(石塔氏祖)、義弁(上野氏祖)、賢宝(小俣氏祖)、基氏(加古氏の祖)等多数。 == 生涯 == 鎌倉幕府の有力御家人足利泰氏と北条(名越)朝時の娘の間に長男として生まれる。寛元3年(1245年)の鶴岡八幡宮放生会における将軍近侍(供奉人中後陣随兵の筆頭)に任じられた足利三郎家氏の記載を初見〔紺戸淳論文(『中央史学』二、1979年、p.13),前田治幸 「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(田中、2013年、p.187)。〕として以降『吾妻鏡』にその活動を見せ始める〔。 母は名越流北条氏の出身で、家氏の誕生時には泰氏の正室であった。「三郎」は足利氏代々の家督継承者の称と考えられ〔紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.13)。『尊卑分脈』によれば、曽祖父義兼、祖父義氏、父泰氏が代々「三郎」を称していた(前田治幸 「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(田中、2013年、p.181~184))。鎌倉期の足利氏歴代当主は正室に迎えた北条氏一門の女性との間に生まれた子を嫡子とし、他の女性との間の子は年長(兄)であっても庶子として家を継がせない扱いであった(臼井信義 「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」(田中、2013年、p.67))。頼氏の子家時や曾孫の高氏(尊氏)は母が上杉氏であるため本来は家督継承者ではなく、「太郎」を称していた。家氏は母が北条氏 (名越流)出身の正室(当初)で家督継承権を認められて「三郎」を称していた。〕、家氏も当初は嫡子として「三郎」を名乗った〔『吾妻鏡』寛元3年(1245年)8月15日条から建長3年(1251年)8月15日条までの7年間、11箇所に亘って「足利三郎家氏」と記されている(紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.13))。〕が、のちに泰氏が北条得宗家の女性(北条時氏の娘)を正室に迎え、その間に生まれた利氏(のち頼氏)を嫡子に立て家氏を廃嫡したものと思われる。『吾妻鏡』における建長4年(1252年)の段階で「三郎」を称する人物が利氏に変わり、家氏の通称が「大郎」(太郎)となっている〔「足利大郎家氏」の初見は建長4年4月1日条で、その後の同年11月11日条には「足利大郎家氏 同三郎利氏」と明確に記載が見られる。ちなみに、『吾妻鏡人名索引』では「三郎家氏」を"利氏の誤りならむ"としているが、建長4年の段階になっていきなり「三郎」の諱(実名)が変化し、別に全く同じ名を持つ「大郎家氏」が現れるのは不自然であるとしている(紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.13))。〕ことがその根拠とされる。 もっとも時氏の子北条時定(阿蘇為時)の娘を正室に迎えたこともあり〔、建長5年(1253年)に中務大輔に任官した〔のをはじめ、弘長元年(1261年)には検非違使・左衛門大尉に任官〔するなど重用され、足利判官大夫と称された。その後もたびたび将軍の供奉人を務めるなどしており、弘長3年(1263年)1月には旬御鞠奉行(蹴鞠儀式担当)〔、同年8月に定められた将軍上洛の供奉人では、水干着用の御家人中、連署北条政村、執権赤橋長時、大仏朝直、名越時章(朝時の子で家氏の伯父)、金沢実時の北条一門重鎮の5名に次ぎ、普恩寺業時(極楽寺流北条氏)の前に記載されるような有力御家人になっている。 以後の動向は『吾妻鏡』の記述が途切れてしまうこともあり不明な点が多いが、足利宗家を相続した弟の頼氏が早くに死去し〔弘長2年(1262年)説が有力。詳細は足利頼氏の項を参照のこと。〕、その跡を継いだ家時が幼少であったため、かつて嫡男であった家氏は一門の重鎮としてその後見役を務め、文永6年(1269年)頃まで当主の職務を代行するなど、事実上の惣領であったともいえる。その間文永2年(1265年)4月には尾張守となり、晩年に出家して蓮阿と号したとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利家氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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