|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 波 : [なみ] 【名詞】 1. wave ・ 義 : [ぎ] 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor
斯波 義敏(しば よしとし)は、室町時代後期の武将、守護大名。越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)10代当主。父は斯波持種、義父は斯波義健。子に義寛、斯波義孝室、寛元、義雄。 == 生涯 == === 重臣との対立 === 永享7年(1435年)〔小泉(2015)は『康富記』の元服記事から永享9年生まれ説を採用する。〕、斯波一門の大野持種の嫡男として誕生する。宝徳3年(1451年)12月12日に元服が行われた(『康富記』)。 この頃の武衛家(斯波本家)は当主の早世が相次ぎ、一門の筆頭格であった持種と、家臣の筆頭格であった執事の甲斐常治(越前・遠江守護代)が幼君に代わって武衛家家中を指揮していた。しかし一門と家臣をそれぞれ代表する持種と常治は相容れず、家中での主導権を巡って対立する状況にあった。 享徳元年(1452年)9月、義敏と同年齢であった武衛家当主の義健が18歳の若さで死去。義健には嗣子が無かったため、持種の子である義敏が将軍及び重臣に推されて武衛家当主と越前・尾張・遠江の三ヶ国守護を継承し、従五位下左兵衛佐に任官した〔『斯波家譜』。なお、『尊卑分脈』『応仁記』などには右兵衛佐と記されているが、幕府発給文書には「左兵衛佐」と記されており誤伝と思われる。また、小泉義博は斯波義種系(大野斯波氏)の初任官は民部少輔であることから、義敏も元服時に同氏の後継者として民部少輔に任ぜられ、翌年の武衛家の家督継承によって左衛門佐に転じたと推定する(小泉(2015)、P287 - P288)。〕。義敏が家督を相続したことにより、持種対常治という一門筆頭と家臣筆頭の対立は、義敏対常治という主従の争いへと形を変えていくことになる。 他の原因として義敏は常治と元から折り合いが悪かったといわれ、義敏が常治の弟を登用しようとしたり、主家をないがしろにする傍若無人な常治の排除を企てていたとする個人的な事情から、領国越前の支配権の大半を手中に収めた常治派を排除すべく義敏を頼った越前国人衆と、彼らと結託して常治から権力を奪い返そうと目論む義敏と常治の権力闘争があったともいわれる。 常治は室町幕府8代将軍足利義政や斯波家重臣・朝倉敏景などの協力を得て越前等の領国経営を押し進め、義政の不知行地還付政策を支持したため、義敏は幕府に常治の専横を訴えたが、長禄元年(1457年)には逆に義敏が甲斐氏をはじめ、朝倉氏や織田氏と直接戦闘を交えて敗れ東山東光寺に篭居する羽目となった〔(『大乗院寺社雑事記』『経覚私要妙』『碧山日録』『在盛卿記』)福井県、P597 - P599、松原、P38 - P41、水藤、P5、渡邊、P75 - P77。〕。翌長禄2年(1458年)2月に義政や細川勝元が両者の仲裁をはかり、ひとまず和解して義敏は自邸に戻ったが、常治と義敏の対立は収まらず、越前では義敏派の国人堀江利真と常治派の朝倉敏景(後に義敏より受けた「敏」の字を棄てて孝景と改名)らが衝突、7月頃についに長禄合戦へと発展していった。 緒戦は利真率いる義敏派が連戦連勝して戦局を有利に展開したが、幕府が不知行地還付政策で寺社の荘園直接支配を推進した時に利真が拒絶したため幕府の態度は硬化、朝倉孝景と常治の息子甲斐敏光らが越前侵入を窺っていた。一方、義政は長禄2年9月になって、義敏と常治に関東の堀越公方・足利政知の救援のために出陣を命じて越前から遠ざけようとしたが、両者は互いに警戒して動かず越前の戦乱は収まらなかった。12月に義敏は改めに出陣を命じられたものの近江国で留まったままであった。だが長禄3年(1459年)1月には越前国にて義敏方と甲斐方の衝突が再燃し、同年5月、義敏は義政からの再三の命令によって関東出陣のために兵を集めたが、その兵をもって甲斐方の金ヶ崎城や敦賀を攻めて逆に敗れたため、義政の忌避に触れて家督を息子の松王丸(義寛)に譲らされ、周防の大内教弘の元へ追放された〔松王丸の家督継承の時期は不明であるが、長禄3年7月19日時点で甲斐常治が幕府の命によって施行状を発していることが確認できる(通常は幕命を受けて守護の施行状が出され、守護の施行状に基づいて守護代の施行状が出されるが、守護が幼少である場合には守護の施行状が省略される場合があった)ため、この段階で松王丸が既に斯波氏家督・守護であったことが判明する(小泉(2015)、P289 - P290)。〕。 こうして長禄合戦は同年8月に常治派の勝利となるが、直後に常治が京都で病死、利真も越前に侵攻した孝景に討たれたため、幕府の関東政策によって寛正2年(1461年)9月に松王丸が廃され、渋川義鏡の息子の斯波義廉が継承することとなった(『大乗院社寺雑事記』寛正2年8月2日条には朝倉孝景と甲斐敏光が関与していたとする〔瀬戸(2015)、P262〕。一方で孝景・敏光の工作説は共に遠江と関東に出陣していた為、疑問)〔義政は事前に孝景・敏光両者を召してこの措置を伝え、孝景には領地を7箇所も与えて今後の越前守護代に関しても何らかの言い含めがあったとされる。福井県、P599 - P606、松原、P41 - P47、谷口、P42 - P43、水藤、P5 - P6、渡邊、P77 - P80。〕。そのため、義敏は反義廉となって幕府側近などに対し、復帰工作を行うようになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斯波義敏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|