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新ヘーゲル主義(しんヘーゲルしゅぎ、、)は、19世紀末から20世紀前半にかけてドイツ観念論の哲学者ヘーゲルの哲学を見直し、復興させようとした一連の運動の総称である。関係した人物の観点から新ヘーゲル学派 (Neuhegelianer) ともいう。この運動は、新カント派の運動が盛んになるにつれ、認識論の方法が再検討されるようになったのをうけて、それに連動され、存在論、特に人間の存在についての研究の必要性が要請されるようになった。この人間の存在を説く拠り所として、かつては「死せる犬」と評されたヘーゲルの哲学(特に弁証法について)にも再びスポットが当てられるようになったものである。 しかし、新ヘーゲル主義は、ヘーゲル哲学の全体を再構築することではなく、歴史的世界の総体的な把握という形でヘーゲルが必要とされたものである。つまり、当時多様に変貌していった社会事情に呼応して、ディルタイなどの生の哲学と共に世界観・歴史的な人間の生の把握にヘーゲルが必要とされたのである。このように、ヘーゲル哲学の全体の再構築という活動ではないことも関連して、学派のようなまとまったものではなかった。また、新ヘーゲル主義の運動も、ドイツのみならず、イギリス、イタリア、フランスなど諸外国にも波及したことも特徴である。このヘーゲル哲学の再興というべき運動は、ひとつはこの時期第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパ全土が戦渦に巻き込まれ、ヘーゲルの歴史哲学・国家哲学・政治哲学とナショナリズムが結びついたという、政治的要因があることも事実であるが、それよりも純粋にヘーゲル哲学の重要性が再び認識されて、ドイツ観念論の各種文献研究が活性化され、カント以降、ヘーゲルに至るドイツ観念論の哲学が近代哲学の重要な一時期であったという、現代の哲学研究でも認知されている評価がこの時期に確立されたことのほうが大きな成果であろう。 == ドイツにおける誕生と衰退== 新カント派の運動は、かつてカントの哲学からヘーゲルに至る観念論哲学が展開されたのと同じように、次第にヘーゲル哲学にも目を向けるように促していった。このヘーゲル再生の運動は、1870年代になって徐々に始まり(完全に廃れていたわけではない、19世紀後半もヘーゲル研究は行われていた)、1897年に哲学史家クノー・フィッシャーの『ヘーゲルの生涯と著作と教説』を刊行し、ディルタイがこの書評でヘーゲル研究の必要性を説いたことより、直接的な契機となった。つづいてディルタイは1905年に『若きヘーゲル』を刊行、ヘーゲル復興の起爆剤となる。また新カント派のヴィンデルバントは、ハイデルベルク大学の総長就任演説において「ヘーゲル主義の復興」と題した講演を行った。この演説は、ヘーゲル復興の流れが哲学史のひとつの動きとして位置付けられたとものとして捉えての演説であった。 この流れは文献研究にも大きな刺激を与えた。カント全集の刊行が発達したのを受けて、ヘーゲル全集の刊行も再び活性化されたのも、新ヘーゲル主義の運動の賜物である。ヘーゲルの未刊行のものも含んだ、ゲオルク・ラッソンによる哲学叢書版の刊行、ヘルマン・グロックナーによるヘーゲル全集の復刻版の刊行などヘーゲルの著作の刊行などが挙げられる。また、多かれ少なかれドイツ観念論を研究するにあたっての必読書ともいえるニコライ・ハルトマン著『ドイツ観念論の哲学』、リヒャルト・クローナーの『カントからヘーゲルまで』の著作もこの時期に出版されたものであり、この新ヘーゲル主義の一連の運動と密接だったということは言うまでもない。ヘーゲルの没後100周年にあたる1930年には、ヘーゲル国際連盟 (Internationaler Hegel-Bund) が結成され、ドイツ以外のヘーゲル学者との交流もあったが、ナチスが台頭するにつれ、徐々に変質され、消滅していった。ヘーゲル研究が三度活性化されてくるのは、第二次世界大戦後から現在にかけてであるが、これは本項で語られるべきものではない。(→現代のヘーゲル研究) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新ヘーゲル主義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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