|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 新 : [しん] 1. (n,n-suf,pref) new ・ 井 : [い] 【名詞】 1. well ・ 白 : [しろ] 【名詞】 1. white ・ 石 : [こく, いし] 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.)
新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。 == 生涯 == === 生い立ち === 先祖は、上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪だったが、豊臣秀吉の小田原征伐によって没落したといわれている〔『姓氏家系大辞典』(太田亮、1934年)などでは白石の遠祖は新田義房の子荒井覚義の子孫とする。加えて『系図纂要』では白石の祖父の代に新井姓に改めたと伝える。〕。 のちに父・正済は上総久留里藩に仕官し、目付をつとめている。 白石は明暦の大火の翌日の明暦3年(1657年)2月10日、焼け出された避難先で生まれた。幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。聡明だが気性が激しく、しかも怒ると眉間に「火」の字に似た皺ができることから、藩主・土屋利直は白石のことを「火の子」と呼んで可愛がったという。延宝2年(1674年)、17歳で中江藤樹『翁問答』(1649年刊)を読み儒学を志す〔岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [ 近世編 ] 』 原書房 2011年 54〕。 利直の死後、藩主を継いだ土屋直樹には狂気の振る舞いがあり、父の正済は仕えるに足らずと一度も出仕しなかったため、新井父子は2年後の延宝5年(1677年)に土屋家を追われる〔21歳の時(1678年:延宝6年)、父親が土屋家の内紛に関係して追放禁固刑に処され(約2年間)たとの説がある(岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 』 原書房 2011年 54ページ)〕。 貧困の中で儒学・史学に励み詩文を学んだ。 その後、直樹が狂気を理由に改易されると、自由の身となった白石は、天和3年(1683年)、大老・堀田正俊に仕えたが、その正俊が若年寄・稲葉正休に殿中で刺し殺されると、堀田家は古河・山形・福島と次々に国替を命じられて藩財政が悪化、白石は堀田家を自ら退いて浪人し、独学で儒学を学び続けた。 この間、豪商の角倉了仁から「知人の娘を娶って跡を継がないか」と誘われたり、河村通顕から「当家の未亡人と結婚してくれれば3,000両と宅地を提供する」という誘いを受けたりしたが、白石は好意に謝しつつも、「幼蛇の時の傷はたとえ数寸であっても、大蛇になるとそれは何尺にもなる」という喩えを引いて断ったという逸話がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新井白石」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|