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新体詩(しんたいし)は、明治時代に西洋詩の影響を受けて、それまでの日本の和歌・俳句などの定型詩や漢詩から新しい詩型を目指した詩作品。1882年(明治15年)に刊行された『新体詩抄』(矢田部良吉、外山正一、井上哲次郎)で広く知られ、詩人としての北村透谷、島崎藤村らを生んだ。 == 歴史と作品 == 幕末に維新の志士が都々逸などの俗謡に倣い自由な詩を作っており、明治初期には西洋の詩が漢詩の形式で和訳され、中村敬宇『嶽南集』(1870年)ではオリヴァー・ゴールドスミス「僻村牧師歌」、ロングフェロー「打鉄匠歌」などを、末松謙澄がシェリー「雲雀の詩」を訳出している。また1877年(明治10年)前後に翻訳されたキリスト教の賛美歌は、七五調(プロテスタント系)や三十一文字(カトリック系)の詩型が用いられた。 矢田部良吉や外山正一は、アメリカでダーウィンやスペンサーの社会進化論を学び、文学改良運動の一つとしてアルフレッド・テニスンなどの訳詩や、外山ゝ山(とやまちゅざん)の創作「社会学の原理に題す」などによる『新体詩抄』を1882年に刊行した。『新体詩抄』の作品は、従来の日本詩歌の花鳥風月や叙情の枠を離れて、思想的、抽象的な内容を取り入れ、律格は七五調であるが、スタンザ形式や押韻、リフレインを取り入れたものだった。作品としては「駄作の偶集にすぎなかった」(日夏耿之介『明治大正詩史』)とも後年評されるが、七五調という以外に何の規定も無いことで、これを再編増補した竹内隆信編『新体詩歌』とも当時の若者に多くの影響を与えた。硯友社系の文学者丸岡九華、山田美妙なども作品を発表し、また湯浅半月は叙事詩の試み『十二の石塚』、植木枝盛は当時の自由民権思想を盛り込んだ作品を作った。 「新体詩(新體詩)」という名前は、井上の発案によるもので、「在来の長歌、若しくは短歌等とは異なった一種新体の詩なるがゆえ」「昔より在り来りの詩歌に異なりたる詩的の作は皆之を称して新体詩と謂わむとするのが我々の考えでありました」〔外山正一「新體詩及び朗讀法」(『帝国文学』二ノ三 1896年3月)〕と述べられている。新体詩の呼び名は1907、8年頃まで使われ、やがて短歌に対する「長詩」と呼ばれ、その後単に「詩」となった。 続いて北村透谷が民権運動の記憶による『楚囚之詩』を発表、落合直文の七五調による長編詩「孝女白菊の歌」(1888年)が以後の詩型に大きな影響を与え、落合「笛の音」を含む、森鴎外らによる訳詩集『於母影』によって新体詩の詩型が確立された。宮崎湖処子の『帰省』は、陶淵明、ウィリアム・ワーズワースの自然観に影響された散文詩で、国木田独歩により「田家文学」の選手として賞揚される。1895年には河井醉茗が詩誌『文庫』を創刊、伊良子清白、横瀬夜雨などが活動した。1897年には国木田独歩、柳田國男、宮崎湖処子、太田玉茗、田山花袋ら合同の『叙情詩』刊行。同年の『文学界』同人の島崎藤村『若菜集』や、岩野泡鳴らの浪漫主義的作品も生まれた。また上田敏の訳詩(1905年『海潮音』など)による紹介を受けて、薄田泣菫は高踏派的な作品、蒲原有明はマラルメなどの象徴詩に影響された方向へと進む。 新体詩の内容は叙情詩、叙事詩を含み、また軍歌や唱歌、創作民謡となったものも多い。これらは文語定型詩であり、明治40年代の口語自由詩へと繋がっていく。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新体詩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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