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新免 純武(しんめん すみたけ、1889年10月23日 - 1967年9月8日)は日本の柔道家(講道館9段)、レスリング選手。文献によっては新免 伊助とも。 == 人物 == === 経歴 === 福岡県福岡市出身。双水執流の家元である福岡市の隻流館で古流柔術を学び、中学生時代に17歳で上京して講道館に入門〔(記録上の入門は1907年5月〔)。講道館の名物男で神田の錦城中学校(現・錦城学園高校)に通う徳三宝2段の推薦で1908年に同校の4年生に編入学し〔、1910年4月に2段位を取得した。徳は新免の入学と同時に錦城中学を卒業して柔道教師を任ぜられ、2歳しか違わない徳と新免は柔道部の師弟でありながら友人でもあり、新免は終に「徳先生」とは呼べずに「徳さん」で通し、また徳も特段気に掛けなかったという〔。明治末期といえば2段位でも警察や学校の柔道教師が立派に務まる時代で、新免自身も日本橋に道場を開設したほか、孫文が興した支那革命軍士官学校の柔道教官も務めた〔。 1911年10月に3段となった新免は、同郷の出身で同じ神田の中学校に通い、同時に3段に昇段した東京中学の藤嘉三郎を強引に錦城中学の5年生に編入させて柔道部を補強〔。新免は「師範に天下の大器・徳三宝をいただき、生徒に藤3段と自分が控え、天下無敵の錦中黄金時代を築いた」と後に語っている。この頃には近隣の日大、明治大、中央大の柔道部員が、身長161cm・体重57kgと小柄な新免にまるで歯が立たず、界隈では瞬く間に評判になった〔。 その後、徳の講道館破門および東京追放に伴い新免は入れ替わりで錦城中学校の柔道教師に着任し、同時に大成中学でも柔道を指導した。 1915年に明治大学法学部卒業〔。同年5月に4段に列せられてから鹿児島県へ赴任し、鹿児島第七高校造士館の助教授(のち教授)、県立加治木中学(現・県立加治木高校)、大日本武徳会鹿児島支部教師、市立商業学校(現・市立鹿児島商業高校)、鹿児島師範学校、県巡査教習所を掛け持ちで指導に当たり、鹿児島県での柔道振興に尽力した〔。 1919年11月に5段に昇段し翌1920年5月には“柔道教士”の称号を拝受〔。1922年に鹿児島第七高校造士館を辞して1926年から米国で2年、その後欧州各国を1年間巡遊し“Judoka Shinmen”として柔道の普及活動を行い〔、この間には自身もレスリングの研究に打ち込んで1928年のアムステルダム五輪には日本代表として出場した〔。 1928年2月に6段となり、1930年に島根県松江市へ移ってからは旧制松江高校教授、松江憲兵隊や大日本武徳会島根支部で柔道教師を務めた〔。その後1934年より1949年まで島根県柔道有段者会の会長、49年から1952年までの3年間は新組織となったばかりの中国柔道連盟にて会長職や全日本柔道連盟の理事を歴任し、中国地方の重鎮として名を馳せた〔。 順当に昇段も重ね、1936年2月7段、戦後間もない1946年5月に8段、1958年11月には9段位を授与された〔。 若い頃に師事した三船久蔵と徳三宝を生涯の師と仰ぎ柔道一筋に生き抜いた新免は〔、1967年にその生涯を閉じている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新免純武」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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