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新婦人協会(しんふじんきょうかい、1919年11月24日 - 1922年12月8日)は、婦人の社会的・政治的権利獲得を目指し、平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらを中心に結成された日本初の婦人団体。 機関誌として『女性同盟』を刊行。創立から約3年の短命に終わるも、治安警察法第5条の一部改正に成功。部分的とは言え女性の政治的権利獲得に成功した戦前唯一の婦人団体として、日本婦人運動史上に大きな足跡を残す。 なお、協会創立を1920年(大正9年)3月28日の発会式からとする記述が多いが、前年1919年(大正8年)11月24日の、平塚による協会設立発表の直後から、その活動は事実上始まっており、市川房枝や〔市川房枝「新婦人協会の歴史」『私の婦人運動』秋元書房、1972年、5~94ページ。〕児玉勝子は〔児玉勝子「新婦人協会」『婦人参政権運動小史』ドメス出版、1981年、35~79ページ。〕、何れも平塚による発表の日をもって協会発足としている。市川によれば、協会の設立発表直後から始めた、請願運動の諸作業を優先したため、発会式の準備が遅れたとのこと。 == 歩み == 広範な婦人解放を進めるため、女性による団体運動の必要性を感じていた平塚らいてうは、1919年(大正8年)頃から、友愛会婦人部の常任書記を辞したばかりの市川房枝を誘い、新団体の結成準備に取り掛かった。ちょうど平塚が、大阪朝日新聞社主催の全関西婦人大会に講師として招かれた機会に、「婦人の団結を望む」と題した講演で協会設立の趣意書を発表、事実上、新婦人協会が始動した。12月19日には東京でも協会結成を発表し、広く賛助員を募った〔金子『鴎外と〈女性〉』では、平塚らいてうの回想文を引用し、平塚の手紙をたずさえた市川房枝が賛助員になってもらうために森鴎外を訪ねたところ、鴎外が趣意書から規約までの諸草案を丹念に読んで朱筆を加えたことや当時の平塚と市川の関係などが紹介されている。ちなみに、留学中の若き鴎外は、1885年にドイツ初の女性団体「独逸婦人会」(1865年設立)の第13回総集会を傍聴しており、また妻と実妹が雑誌「青鞜」の賛助員であるとともに、早くかららいてうを与謝野晶子と並び称される存在と評し、とくに批評を激賞していた(「中央公論」第六号、1912年)。〕。 当面の活動目標として治安警察法第5条改正と花柳病男子結婚制限を掲げ、請願運動を展開。1920年(大正9年)3月28日には、上野精養軒大広間において発会式開催。宣言と綱領、規約、役員を決定。当初は平塚宅を本部事務所とし、平塚、市川、奥むめおの3理事を中心に協会が運営された。同年10月9日付で機関誌『女性同盟』発行。協会の組織作りの一環として、協会支部が名古屋、大阪、神戸、福山、三原、広島に結成。一方、広島県支部に対し、県当局が圧力をかける事件も発生した(広島事件)。 ところが、1921年(大正10年)6月26日に市川が理事を辞任して渡米。平塚も健康上の理由により協会運営から退いた。平塚と市川が設立早々の協会から去った背景には、運動方針をめぐる2人の対立もあった。その後の新婦人協会は、奥むめおと坂本真琴を中心に活動が続いた。この間、東京大森の坂本宅に協会本部事務所、東京西巣鴨の奥宅に機関誌編集部を移転。経済的な理由から機関誌の発行が頻繁に遅延するなど苦しい協会運営が続くが、1922年(大正11年)には治安警察法5条2項改正という大きな政治的成果をあげた。 しかし、カリスマ的指導者であった市川と精神的支柱であった平塚が去った事で、個性の強い協会員間の対立が表面化、平塚の希望により1922年(大正11年)12月8日に臨時総会を開き解散。婦人運動は1924年(大正13年)に発足する「婦人参政権獲得期成同盟会」(婦選獲得同盟)へと引き継がれ、次のステップへ進む事となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新婦人協会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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