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新宿国際劇場 : ミニ英和和英辞書
新宿国際劇場[しんじゅく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しん]
  1. (n,n-suf,pref) new 
宿 : [やど]
 【名詞】 1. inn 2. lodging 
: [くに]
 【名詞】 1. country 
国際 : [こくさい]
 【名詞】 1. international 
: [さい]
  1. (n-adv,n) on the occasion of 2. circumstances 
: [げき]
 【名詞】 1. (1) drama 2. play 3. (2) powerful drug (abbr) 
劇場 : [げきじょう]
 【名詞】 1. theatre 2. theater 3. playhouse 
: [ば]
 【名詞】 1. place 2. field (physics) 

新宿国際劇場 ( リダイレクト:ムーランルージュ新宿座#跡地の状況 ) : ウィキペディア日本語版
ムーランルージュ新宿座[むーらんるーじゅしんじゅくざ]

ムーラン・ルージュ新宿座仏語Moulin Rouge ムーランルージュしんじゅくざ、1931年12月31日 設立 - 1951年 閉館)は、戦前から戦後にかけて、かつて東京・角筈に存在した大衆劇場である。「ムーラン・ルージュ」とは、本家のフランスパリモンマルトルにある「ムーラン・ルージュ」と同様に、フランス語で「赤い風車」という意味である。本家同様、建物の上に大きな赤い風車があった。名前の表記について、プログラム、新聞や雑誌、関係者の回想録などは「ムーラン・ルージュ」と記載されているが、プログラムの表紙はデザイン上「・」を省いて「ムーランルージュ」となっている。商標登記上も「ムーラン・ルージュ」となっている。
== 略歴・概要 ==

=== 新宿ムーランの時代 ===
1931年(昭和6年)12月31日東京府豊多摩郡淀橋町(現在の東京都新宿区新宿三丁目36-16、JR新宿駅南口東側の「新宿国際会館ビル」のあたり)にオープンした。浅草公園六区の「浅草オペラ」時代(1917年 - 1923年)にテナー歌手、その後、玉木座の支配人をしていた佐々木千里〔新宿大通商店街振興組合公式サイト内のコラム「ムーラン・ルージュ新宿座 」の記述を参照。〕が個人で開いた劇場である。定員は430人〔。
1931年オープン時には、龍胆寺雄吉行エイスケ楢崎勤を文芸部顧問に迎え、前カジノ・フォーリー文芸部長の島村竜三を文芸部長とした〔。レビュー軽演劇など、色々なものを演じていた。当初は浅草で演じていた軽演劇の再現でしかなく経営も思わしくなかった。
1932年(昭和7年)12月12日、当時18歳のムーランの歌手・高輪芳子が、四谷区番衆町127(現在の新宿区新宿5丁目)の新宿園アパート2階14号で、雑誌『新青年』のレギュラー執筆者であった当時26歳の作家・中村進治郎とガス心中を図り〔『東京朝日新聞』、1932年(昭和7年)12月13日付の記事の記述を参照。〕、大々的に報道された。「ムーラン・ルージュ」の名が一躍知れ渡ることとなる〔。結局高輪は死去、中村は息を吹き返した。
そのころには、様々な俳優が出演することで、ムーラン独自のカラーの演劇を確立し、次第に評判を呼び満員になるほどの盛況ぶりとなっていた。往時のバラエティーショーを彷彿とさせる多彩な演目を量産する強行スケジュールをこなす中で、スターが生まれた。帝国キネマ演芸で映画俳優「結城重三郎」として活躍後、ムーラン文芸部に入った作家・小崎政房はムーランと並行して、巣鴨撮影所を持つ大都映画の剣戟俳優「松山宗三郎」としても活躍した。
1933年(昭和8年)初頭から1935年(昭和10年)までが、ムーランの全盛期であった〔。パリにあるのはキャバレーであるが、新宿座は劇場である。入口には赤い風車が回っており、当時の新宿の街の名物にもなっていた。当時山の手を代表する歓楽街になりつつあった、「新宿」の芸能文化に触れる上で欠かせない存在である。ムーラン・ルージュ出身の有名な俳優も多い。1923年(大正12年)9月1日関東大震災による浅草壊滅と東東京からの人口の流入を背景に登場した。早稲田大学の学生を始め、角筈近辺に住んでいた文化人にも親しまれていた。
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)、ムーラン・ルージュの名称は敵性語とされ「作文館」と改称することとなった。1945年(昭和20年)2月に経営権が松竹の手に移るが同年5月空襲で劇場が焼失し公演不能となる。戦後は松竹の手を離れ、混乱の中でムーラン・ルージュの名称が第三者によって商標登録されてしまっていたため〔松竹は「作文館」のみ登録しており、「ムーラン・ルージュ」は登録していなかった。〕1946年(昭和21年)10月から「小議会」〔『無芸大食大睡眠』阿佐田哲也集英社文庫第11刷、40-44頁、2004年。〕の名称で公演を再開するが、参加者の意見の食い違いと経営上の困難で早々に解散する。残った関係者がムーラン・ルージュとして渋谷東横デパートで公演するが名称の無断使用に対して権利者から苦情が入り、林以文(恵通企業、現在のヒューマックスグループ創設者)が権利と劇場敷地を買い取って1947年(昭和22年)から経営することになり再建に着手する。しかしストリップショーなど新しいジャンルの娯楽に押され、1951年(昭和26年)5月に閉館された〔〔実際の閉館理由は区画整理によって敷地の一部(楽屋部分)が削られてしまったためである。〕。ここで育った人材は、映画・放送界に流れた〔開局当初のラジオ東京(現在のTBSラジオ)には毎日新聞社満洲電信電話、そしてムーラン・ルージュの各出身者からなる「3M」派閥が存在していたとされる。(大山勝美『私説放送史』講談社2007年)〕。その後ムーラン・ルージュの名称は恵通企業が経営するキャバレーの店名として使用された〔詳細は新宿ジョイシネマを参照。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ムーランルージュ新宿座」の詳細全文を読む




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