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新居関所(あらいせきしょ)旧名「荒井」は、静岡県湖西市旧新居町に所在する江戸時代の東海道の関所。浜名湖西岸の標高約2mの低地に立地し、主要街道の関所建物としては、現存する唯一の建物である。正式名称は今切関所。 久世重之が三河吉田藩(愛知県豊橋市)の藩主を務めた元禄・宝永年間(1697年~1705年)に同藩の管轄下に入り、宝永4年(1707年)の地震・津波後には現在地に移転して、明治維新をむかえた。国の特別史跡に指定されている。隣接地に新居関所史料館がある。 == 概要 == 新居関所は、五街道のなかでも最も往来の多かった東海道に設けられ、舞坂宿(静岡県浜松市西区)と新居宿(静岡県湖西市)の間に位置していた。 尚、読み方は同一であるが、旧来の地名が「荒井」で、現在の地名が「新居」である。明治期以降に字体が改められた。 関所の創設は、慶長5年(1600年)と伝えられる。当初は現在よりも東の向島の地に建てられたが、元禄年間に津波のため移転、さらに宝永4年の大地震・大津波(宝永地震)のため建物が全壊し、翌宝永5年(1708年)に現在地に移転したものである。移転後も浜名湖の湖口に面し、船着場も併設されていたが、今日では浜名湖の埋立てのため、当時とは周辺地形が大きく変化している。 安政東海地震翌年の安政2年(1855年)12月の改築になる関所建物が現存している。母屋は南に正面を向いた平屋建てで、構造は入母屋造、屋根は本瓦葺である。形状は東西に長く、前面が「上之間」「中之間」「次之間」に分かれ、奥には「御書院間」「御用達場」「上番勝手台所」があった。さらに、「下番勝手同休息所」として桟瓦葺の3棟が取り付いていた。 今日では「御用達場」と「上番勝手台所」の棟は失われており、それ以外にも部分的な改変の跡が確認されている。 関所は、明治2年1月20日(1869年3月2日)の関所廃止令で廃止されたが、その中心をなす面番所の建物は、小学校の校舎、また役場庁舎として1951年(昭和26年)まで現役として地域で使用されつづけてきた。箱根関所や小仏関所などでは建物が失われており、主要街道の関所建物としては、唯一の遺存例としてきわめて重要である。 1921年(大正10年)3月3日、江戸時代の交通政策を考慮していくうえでも重要な遺跡であるとして、「新居関跡」(あらいせきあと)の名称で国の史跡に指定され、1955年(昭和30年)8月22日には特別史跡の指定を受けた。 建物は、1971年(昭和46年)には解体修理されたのち、新居関所の当時をしのぶ遺構として保存されている。 1998年(平成10年)12月、関所建物の西側にあった「船会所」「女改め長屋」「大門」のあった箇所、および東側「船着場」の一帯が一括して追加指定を受けており、史跡のトータルな保存と活用がめざされている。 2002年(平成14年)、古絵図・発掘調査に基づき渡船場の一部を復元・護岸整備が行われた。 2014年(平成26年)10月6日、発掘調査によって大御門や土塁の遺構が出土した桝形広場が、特別史跡に追加指定された〔平成26年10月6日文部科学省告示第139号〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新居関所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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